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天竜川水系

2010年5月13日 (木)

あばれ天竜の歩み(その1)

10_5 天竜川…我々遠州地方に住む者にとって馴染みの深い川cloud

かつては「あばれ天竜」と呼ばれた豪壮な川であったといいます。静かにその流れを見せる姿からは到底想像もできない名ですね。

「天竜」と言う名は、古の神と連なる匂いを感じさせる川でもあります。事実、古い文献に現れるこの川の名称は「麁玉(あらたま)河」とか「荒玉河」と表記されていたそうです。

古の世界では、川は水の神(女神)が禊(みそぎ)をする場所とされ、それゆえに聖なる川をアラ川もしくはタマ川と呼んできました。関東平野を流れる荒川も多摩川もかつては皆聖なる川であったのでしょう。

その後我が天竜川は、二度三度とその名を変えていきました。「広瀬川」とか「天中川」と呼ばれていた時代もあり、現在の「天竜川」の名が文献に現れるのは1200年代になります。

こんな記載が「東関紀行」にあるそうです。(天竜川の様子のスケッチ)

 天竜と名づけたたる渡りあり。川深く、流れ激しく見ゆ。 この川水まされる時、舟なども自ら覆りて底の水層となる類多しと聞くこそ、いと危ゆき心地すれ。

これは下流の池田の渡しの船の様子を表したものだといいます。この記述から当時の天竜川のあばれぶりが想像できますねsign01

この頃から「天竜川」という名称が定着していったようですが、もともと聖なる川と仰がれてきたこの川の名称が「天竜川」と呼ばれ定着していった背景には、中世以降生まれた「竜蛇信仰」と深く結びついていったと言われています。

いよいよ天竜の「竜」の登場ですね。またこの続きは次回に紹介することにしますgood

「あばれ天竜」の歴史は本当に興味ぶかく、自然に古のドアを開けてしまいます…shine

    ☆参考文献:天竜川水系の世界観「神のかよい路」後藤総一郎著

                                      (mamesan記)

2009年1月27日 (火)

あなたの足元に…

「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」

自分の足元をみて、もう一度見直してみようということgood

外の世界を見る前に、大事なものが身近なところにあるのではないかということgood

この言葉は、地元の民俗芸能や昔からの暮らしについて研究し、大学で教鞭をとっている、ある教授が、講義の中で引用したものです。

東京にある秋葉原…この地名は、その昔秋葉神宮が分祀されていたことに由来するものだそうです。

これは、私たちの住む地域にある春野の秋葉神宮のことです。秋葉信仰は、その昔全国で深く信仰されていたのですね。

信仰の道は、様々な文化を伝達し、街道の産業を盛んにしたことでしょうshine

秋葉を目指して歩く人々の道のあちこちには常夜灯の姿

今では、町の喧騒の中や、郊外の道の脇、山深い山道などに、ひっそりと立っています。昔の暮らしぶりを彷彿とさせる地名も、どんどん消えていきますweep

身近なところに、沢山の名残の跡…このままではいずれなくなってしまうかも知れません。

あなたの住む町にも、深い歴史を刻んだ場所がいっぱいあるのです。伝えていくべき伝統や祭りもあります。

あなたの住む町の自然も守っていかねばなりません。

「脚下照顧」ちょっと堅い言葉ですね。

でも…今一度見つめなおしませんか?あなたの近くの場所をsign03

2008年12月22日 (月)

伊那谷のルネサンス:中尾歌舞伎の伝承活動

2008年のカウントダウンの音がそろそろ聞こえてくる頃になりました。

天竜川水系の民俗芸能をお伝えしていく中で、限界部落での祭の存続の難しさをひしひしと感じています。

そんな中で、長野県伊那市長谷地区での力強い取り組みを知るようなり、元気づけられる思いです。

097_j08_nakaokabuki_2 それは「中尾歌舞伎」の復活と上演にかける地域住民の熱い想い。

発祥は江戸時代、その後消滅の危機にあった「中尾歌舞伎」は、昭和61年「村づくりを進める中で古いものに目をむけ、貴重な伝統を残す必要があると、青年会での話し合いが持ち上がった」ことにより、復活。

一回限りの復活のはずが、住民の大きな喜びを生み、引くに引けなくなり、毎年公演を重ねるようになります。また青年会のメンバーもその面白さに惹かれていき、ついには世帯数50戸あまりの小さな部落に「中尾座」舞台が建設されたということです。

昨今の動きとしては、2008年周辺地域を巻き込んで、「中尾歌舞伎ふるさとおこし協議会」を設立。農林水産業事業「農山漁村地域力発掘支援モデル事業」に採択され、3カ年事業で、中尾歌舞伎のブランド化や物産品の開発、中尾座への博物館整備、オーストラリア・チロル地方オーバンベルグ村での公演と交流を構想しているとのことです。

オーバンベルグ村は、伊那市長谷地区とほぼ同様な人口規模を持つ小さな村です。過疎という概念はなく、美しい自然を守り、地域の文化を誇りにしているその村の人口は100年前と変わらないのだそうです。

何故村人は都会に出ないのか?何故統一がとれた美しい景色を人々は作り出せるのか?何故特徴的な生活が成り立っているのか?

中尾歌舞伎保存会の人々は、この美しい村の人々との交流を楽しみにしているそうです。

伊那で起こったルネサンスの今後の動向を見守ると共に、天竜川水系の他の地域へこの活動が波及していけばどんなにいいだろうとわくわくする思いでいっぱいです。

(参考文献:静岡文化芸術大学 「静岡学」資料より)

2008年11月28日 (金)

神沢「おくない」田楽 30年ぶりの復活

浜松近辺の田楽系の民俗芸能としては、川名のひよんどり、寺野のひよんどり、懐山のおくないなどが有名ですが、その他に天竜区熊の南西部に位置する神沢地区、万福寺阿弥陀堂の「神沢おくない」があります。

この「神沢おくない」は、残念ながら昭和30年後半に途絶えてしまいました。その貴重な芸能を絶やさないように、昭和50年熊中郷土研究クラブが地元の古老の指導を受け、「神沢田楽」として活動を始めたのだそうです。

「ふるさとを愛し、大切にする」教育の一環として全校として取り組み、上級生が下級生に教え、伝える方式で受け継いできており、それは人口減少によって近辺4中学が合併し清竜中学校になっても今に至るまで延々と続けられているとのことです。

全校で取り組み、途切れることなく、継承活動をしているというのは本当に素晴らしいことですね。

神沢地区出身の石野重利さんは、この活動に自ら面を打って寄贈し、過去の資料を調べ「手引書」を作成、また中学校にも赴き、生徒への指導をされています。

石野さんは、学校頼みだけでの伝承活動ではいつか限界が来ると感じ、危機感を持って地域の人に取り組んでもらえるよう自主的に保存、伝承活動を始めたそうです。

ふとしたきっかけで、この石野さんと知り合い、昨日直接お話を聞いてきました。

膨大な資料をひとりで調べ作り上げ、手引書も、手書きで丁寧に、踊りのしぐさひとつひとつまで詳細に描かれており、その並々ならぬ熱意を強く感じました。

この「神沢おくない」が来年1月5日、30年ぶりの復活を果たします。

現在では「西神沢老人憩いの家」となっている、万福寺阿弥陀堂内において、中学生による田楽の舞が披露されます。記念すべきこの日には、この記録を残すべく、文化庁からも撮影に来るそうです。

石野氏は、今回の復活が「神沢おくない」の再生につながるきっかけになってくれればとおっしゃっていました。

阿弥陀堂は、寺野の三日堂(宝蔵寺観音堂)、渋川の四日堂(万福寺薬師堂)に対して五日堂を呼ばれていました。確かな文書が残っていず、その発生は定かではありませんが、少なくとも300年近くは続いていたと考えられ、もしかしたら500年以上の歴史かもしれないとのことです。

山深い里での一日限りの復活…山に響く久々の舞の調べは私たちに深い感慨をもたらしてくれそうですね。

(神沢おくないの資料の写しは、石野さんの了解のもと、私の手元にありますので、ご覧になりたい方はお申し出ください)

2008年11月10日 (月)

道の文化

恵まれた気候と交通の便のよさ、しかも主要都市の東京、大阪、京都、名古屋へのアクセスもたやすいこの静岡県。

恵まれているからこそ、その素晴らしい環境に気づくことが少ないのかも知れません。ハングリー精神に欠ける、歴史上の大物が少ない、特色がない…等々自県のイメージをそんな風に持つ方も多いのではないでしょうか?

古くは江戸と京都をつなぎ、今でも重要な道である東海道を有しているわが県。そこは多彩な人々の行きかう道でした。参勤交代の諸国大名や武士たち、旅の公家たち、高僧や修験者たち、お伊勢参りに向かう民衆たち、飛脚、商人たち、そこには朝鮮通信使などの異国の人々もいたでしょう。東海道は、黙っていても遠くの都の情報や異国の文化に触れることができた情報ブロードバンドといえるかも知れません。

人の往来は宿場町を生み、そこに様々な職業の人々が集まってきます。もたらされた文化や学問は地域に浸透し、独自の文化を育てていったことでしょう。

こんなことから東海道のもたらした文化を「回廊文化」とも言うそうです。

東西を貫く道の他に、川沿いの道、海沿いの道が陸の道です。他には海の道、川の道、信仰の道、芸能の道、塩の道があります。

恵まれた地域のために道が整備され、その道によって、東西の情報は北へ南へ伝わっていいったことでしょう。

Matsunamiki 東海道の街路樹として見慣れた松並木や、そこに立てられた標識は、約400年前に整備されたものであり、当時としては世界的も稀な事業だったのです。

天竜川水系の文化も、多くは、この東西の道から川の道、川沿いの道、信仰の道、塩の道へ、あるいはその逆の道筋で伝えられ形成されていったと考えられます。 

そこには今では忘れられてしまった道も沢山あります。そんな歴史の詰まった魅力的な道をすこしずつでも探っていきたいものです。

2008年10月27日 (月)

北遠・三河の芸能地巡りⅣ・花祭の里・東栄町へ

少し間が空きましたが、「芸能地巡り」最後の報告になります。記憶の箱をぼちぼち彷徨いながらお伝えしていくことにしましょう。

水窪の西浦田楽堂を後に、愛知県北設楽郡東栄町に向かったのは午後3時を過ぎた頃。まだまだ日が高いはずなのに、四方を山に囲まれたこの界隈ではすでに夕刻の雰囲気です。この先、日差しは日増しに弱くなり、山に遮られた日差しが山里を照らす時間はぐっと短くなっていきます。この山あいの村々で、もっともその力が弱まる冬至の頃に、太陽のエネルギーを求めて行われる神事が多いのがうなづける気がしました。

Touei2 現在花祭が行われているのは12ケ所、内11ケ所がこの東栄町に残っているということです。私たちが向かったのは「花祭会館」。この地域も時代の流れで、祭を継続できなくなる部落が増えているようですが、東栄町では、この会館の存在により、立ち寄る人にその素晴らしさをアピールでき、それにより継続のために力を貸してくれる県外の団体や祭事を伝承してくれる他県の子供たちも沢山いるとのことでした。  

Touei1 小さな会館で首を長くして待っていてくれたのは、会館の館長さん。花祭りの長い歴史、祭事の決まりごとなど、熱弁を奮ってくれました。                                                                     

                                                                 

 

                                        

Touei4会館の中は、その概観からは計り知れないのですが、かなりの充実ぶりでした。舞台も設置され、面の数々、衣装の数々…どれも目を見張らずにはいられないものです。                                          

                                             

 

                                              

 

花祭(はなまつり)の由来やその名の意味については不明な点が多いそうですが、今のところ、南北朝時代から室町時代にかけてこの地に入植した開発領主が、村々の寄り合い方式で祭礼を行い、そこに熊野・伊勢系統の湯立てを中心とした神楽が入り込んだものと考えられているそうです。そこに更に、田遊び的なもの、修験道儀礼的なものなど、様々な要素を取り混ぜ、江戸時代には現在の形になったと言われています。                                    

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表情豊かな沢山の面を見ているだけで、この祭りがいかに魅力的であるのかを彷彿とさせました。 Touei14   

 

 

 

 

 

                                                      

「眠い、煙たい、寒い」と言われる厳しい条件の中で行われるこの祭、やはり実際に目にしなければと決意を新たに、もうすっかり暗くなった山道を私たちは浜松へと帰ってきました。                       

                                                    

Touei12 ほんのちょっと足を伸ばした場所に眠っている祭の数々、皆さんも、ご自身の足で、目で、その世界を是非体験しに行ってみてください。  

Touei11

2008年10月 6日 (月)

北遠・三河の芸能地巡りⅢ・西浦田楽

引佐から水窪に向かった私たちは、途中の佐久間ダムで昼食をとり、次の目的地の西浦観音堂を目指しました。

降り立つ場所、場所でその歴史に触れ、長い時間を過ごしたために、その行程は予定の時刻からかなり遅れて進んでいました。

Nishiura1 観音堂で首を長くして待っていてくれたのは、能衆(のうしゅう)の一人の方。

「能衆」とは、この西浦田楽の大きな特徴の世襲制となっている演者のこと。翁川沿いの七集落の中の十七軒の家の者が、この「能衆」となっており、代々厳格な役割分担を担い、この伝統を守っているとのことでした。

この西浦田楽は、伝説によると、養老七年(779年)に行基がこの地を訪れ、観音像と仮面を奉納したのが創始といわれ、その年に現在の別当家(祭主)の先祖にあたる者が祭礼を始めたのだそうです。

現在は「西浦田楽」という名称が通っていますが、これは近年のもので、現地では単に「お祭り」とか「木の根祭り」とも呼ばれていたようで、その内容も、単に狭義の田楽にとどまらず、田遊び・猿楽能を中心として神楽風の「演目」も含んでおり、「おこない」の芸能というべきもののようです。このため、西浦田楽は、中世芸能のデパートとも言え、貴重な文化遺産なのだそうです。舞には「地能」と「はね能」の二種があり、それらは民間らしく野趣に富むものになっています。

Nishiura2 観音堂は車道から小高い丘へと続く坂を登っていった静かな山間にありました。汗を拭き吹き、枝の杖をつきながら着いた場所は、見晴らしがよく、爽やかな風が吹き抜けていました。能衆の方から貴重なお話を聞き、その中で、バスを運転してくださっている方も能衆のひとりであることがわかりました。こうして、いくつかの能衆の家の方が、他の土地に働く場所を求めて去っていき、その歴史が途絶えていく現実も感じることができました。

祭礼は旧暦一月十八日に行われるそうです。内容も想像以上に豊富なものなのだとわかり、大変魅力を感じましたので、是非当日にこの場所で味わってみたいと思います。

Nishiura3  

帰り道、坂道をしんどそうに登ってくる地元のおばあちゃんお二人に出会いました。「いい所ですね。」と声をかけると、「たまに来る人にはいいところかも知れないけどね…。」との返事。この先も守っていきたい自然や芸能、その裏には厳しい生活環境の中にいる人がいるのだと思うと、少し胸が痛くなりました。

そんな思いを頭の片隅に残しながら、私たちは、いつしか弱い光を放つようになった西の空に位置する太陽に向かって進むかのように、三河の東栄町を目指しました。この様子は次回お伝えします。

2008年10月 1日 (水)

北遠・三河の芸能地巡りⅡ・名残の農村舞台

横尾歌舞伎会館を後にした私たちは、かつて引佐地区に18ケ所もあり、その内現存する10ケ所の農村舞台の中の、いくつかの名残の場所を目指してバスを走らせました。

先ずは谷沢地区。のどかな田園地帯の一角にその舞台はありました。

神社の脇にポツンと建っていたバス亭を見ると、そこには一日たった一往復のバスの時刻表が記されており、なにか不思議に印象に残っています。

Butai4_2 神社を含む境内全体がビニールの屋根で覆われ、大切に守られているのだなと感じました。

舞台は歴史を感じさせるたたずまいで、閉ざされた木戸のために中に入ることは叶いませんでしたが、隙間から中の様子を窺い知ることはできました。 

Butai1_2 この舞台で歌舞伎が演じられることはもうありませんが、時折住民の演芸などを催す憩いの場所として愛されているとのことでした。                                         

                                                               

                                                          

次に向かったのは狩宿(かりしゅく)地区。

Butai6_2 ここの舞台は回り舞台も有するもので、建物自体もしっかりとしたつくりでした。ここも木戸によって中をしっかり見ることはできませんでしたが、木戸の割れた隙間から、ぼんやりとではありましたが、中の様子を感じることはできました。         

                                            

                                           

Butai5_2 舞台の前の広場から石段を登ると、趣のある六所神社があり、上の方から村全体を見守っているような気がしました。

静寂を破るようにバスで乗り付けた私たちを、腰の曲がったおばあちゃんが、いぶかしげに何度も何度も振り返って見つめていた様子が印象に残っています。

折しも、辺りは真っ赤な彼岸花が咲き乱れていました。緑の山々と田園地帯の風景に見事にマッチして、それは心癒される風景でした。                                                                

                                         

                                   

そこから、私たちは西黒田地区の舞台を車中から眺めながら、次の目的地の西浦に向かいました。その様子は次回お伝えします。 

Butai7_2  

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2008年9月29日 (月)

北遠・三河の芸能地めぐりⅠ・横尾歌舞伎

雨上がりの翌日の秋晴れの一日、9/27(土)北遠の民俗芸能ゆかりの地を巡ってきました。

これは、地元の静岡文化芸術大学の公開講座の番外編として企画されたフィールドワーク。天竜川水系の民俗芸能に詳しい須田教授の説明を受けながらの楽しい一日でした。

須田教授は、常々、天竜川水系が民俗芸能の宝庫ということから世界遺産に匹敵すると言われている方で、以前のコラムで紹介したことがある方です。

Yokoo8 先ずは引佐地区の横尾歌舞伎記念館の見学。ほんの少し足を伸ばしたところにあるのに、初めてその場所に足を踏み入れた私は、その歴史の深さに驚きました。

ここは、昔軽便と呼ばれた電車が走っていた頃、東四村(ひがしよむら)という駅があった地区だそうです。

横尾歌舞伎は、横尾地区の八桂神社、白岩地区にある六所神社の、二つの神社の祭礼の余興としておよそ200年ほど前に始まったものだそうです。この歌舞伎は、大阪から名古屋、新城を経て、旅役者によって伝えられたそうですが、地元の方は実際に歌舞伎の座の中に入り込み、修行を積んで、その技を習得したとも聞きました。

Yokoo9 記念館では地元の方から懇切丁寧な説明を受け、100点にも及ぶ衣装、200点にも及ぶかつら、道具類が大切に保管されている様も見学することができました。衣装の中には100年以上経っているものもあるということでした。

舞台は開明座と呼ばれ、修理を重ねてのものということですが、予想以上に立派な舞台で、大切に守られている様子が窺えました。

長い間継承され守られてきた裏側には、沢山の人々による苦労が隠されているのでしょう。かつて、横尾・白岩地区に生まれ育った青年は、若者組(歌舞伎の担い手のために作られた組)に所属し、舞台に立つことが半ば義務づけられていました。この義務を怠ると風呂焚きなどの制裁が加えられたそうです。

Yokoo10 現在は保存会の人々によって守られているこの横尾歌舞伎…来月にはその公演が次の通り予定されています。今年は小学校一年生による公演があるそうですので、是非その可愛い演技を観てみたいものですね。                                                       

                                                                                  

                           

                                              

                                                      

 平成20年度公演(10/11、12)

    午後6時~  於開明座(浜松市東四村農村コミュニティーセンター)

    浜松市北区引佐町横尾889番地の1    入場無料

    今年の演目予定はこちら

Yokoo7 最盛期には、横尾歌舞伎の開明座を含め、引佐町には18ケ所の舞台があり、その内10ケ所の舞台が現存し、開明座以外では歌舞伎の上演は行われていませんが、そのいくつかは住民の憩いの場として今でも利用されているようです。

開明座を後にした私たちは、次に、そのいくつかの舞台を目にするべく近郊の狩宿、谷沢地区を目指しました。その様子は次回紹介いたします。

2008年9月16日 (火)

森と川に生きた民具展

★天竜川の水運と民具

Cimg1673
天竜川は近世近代において、南北を結ぶ交通路として重要な役割を果たしていました。物資の輸送は川船により行われた。風をはらんで遡る帆掛け船は天竜川の風物詩であり、厳しい自然の中の生活詩であった。流域には多くの船大工がいて、差波船とよばれた川舟を造っていた。本展には船大工道具を展示している。
Cimg1698

天竜川流域の森林資源である材木は木曽川などと同様に杣人により、運搬の後に専業の筏師により、川下げされた。本展には筏師の使用した雨具としての蓑(みの)や鉈、鋸などを展示している。(おわり)
(INAKAX応援団 鹿島交流振興会 杉浦貞次郎)


2008年9月15日 (月)

森と川に生きた民具展

★林業と民具
Cimg1672
林業の仕事は育林、伐木、造林、運材である。杣(そま)、樵(きこり)、炭焼は山間村における重要な生業であった。杣人は山入りし、山小屋を作った伐木造林をした。造林には斧(おの)、鉈(なた)、鳶(とび)、鋸(のこぎり)等が使われた。木挽きは製材に従事し、大型の縦挽き鋸を使って板に挽いた。運材は木馬、地車、さ手、釣木、修羅、釣り出し(肩上げ)により行われた。
山落し(谷出し)された木は管流しされ、本流では筏により筏流しで流送された。本展には残されている山仕事の道具を展示している。山に生きた人々の暮らしが物語られている。(つづく)
(INAKAX応援団 鹿島交流振興会 杉浦貞次郎)

2008年9月14日 (日)

森と川に生きた民具展

★筏問屋田代家に伝わる古民具
Photo
天竜は森と川の文化の地域である。木の文化としての民具、民芸は時代の変化と共に姿をけしている。
手作りの民具、道具には、それぞれが持つ風情、風格があり、先人の知恵と共に職人の匠と誇りとよろこびが伝わってきます。また自然の中の暮らしが語られている。
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これらの民具、民芸の文化は森と川のまちの生活の文化遺産として、伝承していきたいものである。(つづく)

(INAKAX応援団 鹿島交流振興会 杉浦貞次郎)

2008年3月31日 (月)

繋がる糸

私たちの住む町の歴史

普段は少しも意識することがなくて、ただ今の生活を送っていると目に留まらないもの

近隣の民俗芸能を調べていくと、小さな町や村にかつて起きていた出来事が見えてくる

道ばたの小さな道標や、今はもう渡る人もいない橋、片隅に忘れられた小さな祠や社に、多くの人が一喜一憂した歴史が隠されていることを知る

教科書に載らない近隣の歴史…なんて奥深いのだろうと感嘆する日々

高く積まれた本をひもといていくと、昔の人の暮らしが活き活きと蘇ってくる喜び

学生時代ワンゲル部だった私は、大きなキスリングを背負い、大井川鉄道のトロッコ電車に乗って、南アルプスを目指したことが何度かある

旅番組で知った「わっぱ」というお弁当箱を求めて、これまたトロッコ電車に乗ったこともある

南アルプスの玄関口も、「わっぱ」の里も大井川の上流の井川という場所

14723dakekanba この井川の里と、南信濃の下栗の里が、なにやらつながっているらしいと知った

その昔奥深い南アルプスの山を越えて行き来した人たち

井川の里から下栗の里へ、下栗の里から井川の里へ…移ってきた人がいた

様々な習慣や芸能もそれに伴い、峠を越えて交差して伝わっていったのかも知れない

わっぱという細工を生業とする人たちが生まれた理由も本のひとつから知ることになった

遠い時間を経て、学生時代に通った場所と、最近霜月祭りで出かけた南信濃の村がつながった不思議に驚く

今は誰も通ることのないけもの道のような険しい道を、古の人たちはどんな思いを抱えて歩いたのだろう?

2008年2月18日 (月)

天竜川水系が「世界遺産」に?!

なんの予備知識もなく「世界遺産」に?の話にびっくりしましたeye

地元静岡文化芸術大学の公開講座「東南アジアを知る」のひとつ「東アジアと日本ー芸能の視座から」を受講したときのことです

正直なところ、「えっ、本当?」と怪訝な顔をした私です

民俗芸能を分類するとgood

Matsuri12_2 1.神楽(巫女神楽・採物神楽、出雲流神楽、伊勢流神楽、獅子神楽)

2.田楽(田遊び・田植踊り、御田植神事、田楽躍)

3.風流(神遊び、太鼓踊り・風流獅子舞、念仏踊・盆踊、小歌踊、作り物風流・行列風流・動物風流など)

4.語り物・祝福芸(巫女祭文、千秋万歳・春駒など、平曲・幸若・題目立・説経・浄瑠璃など)

5.渡来芸・舞台芸(伎楽(獅子舞など)・舞楽・散楽など、延年・能・狂言・人形芝居・歌舞伎)

なんとこの大きく5つに分類される民俗芸能が、この天竜川水系にすべて存在するというのです sign03

このように多様な民俗芸能が、全て網羅される地域というのは全国的にも珍しい…それが「世界遺産」に匹敵するということらしい

講義をして下さったのは、静岡文化芸術大の須田教授で、今後も折りに触れてこの提言を続けていきたいとおっしゃっていました

なんて誇らしい、なんて素晴らしい提言でしょうshine

さて代表的な芸能はなにかと言えばdownwardleft

 Matsuri16_2 神楽ー遠山霜月祭(長野・南信濃)、霜月神楽(愛知・設楽郡)、花の舞(静岡・佐久間)、花祭(愛知・設楽郡)

 歌舞伎(地芝居・農村歌舞伎)ー大鹿歌舞伎(長野)、横尾歌舞伎(静岡・引佐)、浦川歌舞伎(静岡・佐久間)、雄踏歌舞伎(静岡・雄踏)、湖西歌舞伎(愛知・湖西)…このほか、引佐井伊谷や細江、水窪、浜北大平、浜松滝沢、浜松都田などに農村歌舞伎舞台があったという

人形芝居ー黒田人形(長野・飯田)、今田人形(長野・飯田)、早稲田人形(長野・下伊那郡)、古田人形(長野・上伊那郡)など。記録上、伝承上の人形座を含めると、伊那地方には30以上も存在したという、まさに伊那は人形芝居の里と言えます。

田楽系ー静岡(水窪西浦、天竜神沢おこない、天竜懐山おこない、引佐寺野おこない、引佐川名ひよんどり)、愛知(設楽田峯、鳳来大林、鳳来門谷、鳳来黒沢、設楽東栄古戸)、長野(新野雪祭)

舞楽系ー静岡(森町一宮・小国神社、森町天宮・天宮神社、森町飯田・山名神社)

念仏踊り系ー静岡(遠州大念仏、滝沢放歌踊り)、愛知(鳳来町のほうか、新城・大海のほうか、設楽郡・田峯念仏踊り)

以上は公開講座のレジメより抜粋した資料です(須田教授の了解の元掲載しています)

私が実際目にしたのは、1の神楽の中、遠山霜月祭りです。その内容はまた次の機会に紹介するとして、その湯立祭りの雰囲気だけでも画像でお楽しみください。

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2008年2月 8日 (金)

素朴な疑問

先ず頭に浮かんだ素朴な疑問は何か?というと…こんなこと

「天竜川水系」ってどこからどこまでを指すの?

天竜川の支流は一体どこまで広がっているの?

 

「天竜川水系」とは 

天竜川(てんりゅうがわ)は長野県にある諏訪湖を源流として、伊那谷を形成し、静岡県磐田市旧竜洋町で太平洋に注ぐ天竜川水系の本流で、一級河川(日本全国9位)。流路約200km、流域面積約5,100k㎡(日本全国12位)の河川で、その本流、支流を合わせた地域を「天竜川水系」と呼びます。 いわゆる三遠南信地方と呼ばれる地域…三河、遠州、南信州にこの本流の他、沢山の支流があるようです。

  現在では穏やかな流れを見せているこの天竜川も、昔は水量も多く、人々の暮らしに多くの恵みを与えてくれただろうし、逆にその姿を大きく変え、人々を大いに悩ませ、苦しめたことでしょう。長い長い時間の中、この川の周りで、自然がどう変化し、人々のなりわいはどう変わってきたのでしょうか。  

 「天竜川の支流はどこまで広がっている?」

 調べてみてびっくりしました。

 小さな支流や沢を除いても、なんと160ほどの支流があるのです。その2/3の100を越える支流は南信濃地域(伊那郡、飯田市等)にあり、残りの1/3が静岡県(主に浜松市)の40強の支流と愛知県(主に設楽郡東栄町、設楽町、豊根村)の20弱の支流です。天竜川はこの160強という多くの支流に別れて、それぞれの旅をし、遂に太平洋に流れ込んでいくのです。

支流の詳しい内容はこちらで検索ワード「天竜川の支流一覧」と入力して頂ければご覧頂けます。(サイト:ウィキペディア フリー百科事典)

 川の流れで伝わっていくものがあるとしたら、人々の暮らしぶりや文化に共通点が見つけられることもうなづけるでしょう。

 少し離れる話ですが、ポール・ギャリコという人の作品に「雪のひとひら」という物語があります。ひとひらの雪の結晶の一生を描いたファンタジーです。空から降り落ちた水滴が美しい結晶に姿を変え、仲間の結晶に出会います。そして、「雪のひとひら」は恋をし、結婚し、小さな結晶の子供達と共に地上で懸命に生きていきます。逃れられない宿命なのですが、その姿は遂に元の水滴に戻り、川へ流れ、長い旅の末に海へと至ります。

 南信濃や春野や三河の山々に降り落ちた雪の結晶が、同じ運命を辿ると想像すると、無数の雪の人生が、この天竜川の本流や支流につまっていることになります。そして彼らがその旅の途中でどんなものを見てきたのかと思うと、ロマンを感じずにはいられません。

かなりロマンチックに過ぎた話になりましたが、この地域がそれほど魅力のある場所だということをお伝えしたかったのです。

画像は日本のアルプスと言われる南信濃の上村、下栗の里の風景です。この里のもっと北の地が天竜川水系のスタート地点になります。

素朴な疑問は解決しました。

さて次はどこのドアを開いて行きましょう。ゆっくりと進んでいきますので、がっかりなさらずに今後もご覧ください。

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