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三遠南信

2010年2月 7日 (日)

三河田楽…存続の危機

国の重要無形民俗文化財「三河の田楽」のひとつである「黒沢田楽」が存続の危機に瀕しているとの記事を目にしました。(2月6日付け中日新聞 社会12面)

「黒沢田楽」は、愛知県新城市七郷一色の黒沢地区に伝わるもの。静岡県境の山奥にあり、源氏の落人が開いた集落で、この田楽は五穀豊穣を祈願して鎌倉時代に始まったとされています。

存続の危機は、言わずと知れた「過疎化」「高齢化」によるもの。同様の問題は他の民俗芸能を伝承する地域が抱えるものです。

現在の舞手はたったの4人…若くて50代後半、上は80歳近い方もいるそうです。林業の衰退で若者の流出が続き、現在に至るといいます。憂いてもどうにもならない現状に、街に住む私たちはただ眺めているしかできないのでしょうか?

田楽踊り、田楽能、猿楽能、田遊びで構成される黒沢田楽には37の演目があり、これまで地元の在住者だけで継承してきましたが、今後は鳳来寺田楽などと同様に地元以外の外部の協力を検討せざるを得ないということです。

こんな危機を抱えて、「黒沢田楽」が本日(2月7日)午前11時から午後3時頃まで阿弥陀堂で催されます。支援の動きが活発になり、存続の危機をなんとか乗り越えて欲しいと切に願います。

今後も続く同様の危機をくいとめるのは、やはり山を元気にすることでしょう。

山を元気にし、人々が再び里山に戻ってくる日のために、まずできることから始めていかなければと改めて思います。

                                                                                                                        (mamesan 記)

2009年1月27日 (火)

あなたの足元に…

「脚下照顧(きゃっかしょうこ)」

自分の足元をみて、もう一度見直してみようということgood

外の世界を見る前に、大事なものが身近なところにあるのではないかということgood

この言葉は、地元の民俗芸能や昔からの暮らしについて研究し、大学で教鞭をとっている、ある教授が、講義の中で引用したものです。

東京にある秋葉原…この地名は、その昔秋葉神宮が分祀されていたことに由来するものだそうです。

これは、私たちの住む地域にある春野の秋葉神宮のことです。秋葉信仰は、その昔全国で深く信仰されていたのですね。

信仰の道は、様々な文化を伝達し、街道の産業を盛んにしたことでしょうshine

秋葉を目指して歩く人々の道のあちこちには常夜灯の姿

今では、町の喧騒の中や、郊外の道の脇、山深い山道などに、ひっそりと立っています。昔の暮らしぶりを彷彿とさせる地名も、どんどん消えていきますweep

身近なところに、沢山の名残の跡…このままではいずれなくなってしまうかも知れません。

あなたの住む町にも、深い歴史を刻んだ場所がいっぱいあるのです。伝えていくべき伝統や祭りもあります。

あなたの住む町の自然も守っていかねばなりません。

「脚下照顧」ちょっと堅い言葉ですね。

でも…今一度見つめなおしませんか?あなたの近くの場所をsign03

2008年12月22日 (月)

伊那谷のルネサンス:中尾歌舞伎の伝承活動

2008年のカウントダウンの音がそろそろ聞こえてくる頃になりました。

天竜川水系の民俗芸能をお伝えしていく中で、限界部落での祭の存続の難しさをひしひしと感じています。

そんな中で、長野県伊那市長谷地区での力強い取り組みを知るようなり、元気づけられる思いです。

097_j08_nakaokabuki_2 それは「中尾歌舞伎」の復活と上演にかける地域住民の熱い想い。

発祥は江戸時代、その後消滅の危機にあった「中尾歌舞伎」は、昭和61年「村づくりを進める中で古いものに目をむけ、貴重な伝統を残す必要があると、青年会での話し合いが持ち上がった」ことにより、復活。

一回限りの復活のはずが、住民の大きな喜びを生み、引くに引けなくなり、毎年公演を重ねるようになります。また青年会のメンバーもその面白さに惹かれていき、ついには世帯数50戸あまりの小さな部落に「中尾座」舞台が建設されたということです。

昨今の動きとしては、2008年周辺地域を巻き込んで、「中尾歌舞伎ふるさとおこし協議会」を設立。農林水産業事業「農山漁村地域力発掘支援モデル事業」に採択され、3カ年事業で、中尾歌舞伎のブランド化や物産品の開発、中尾座への博物館整備、オーストラリア・チロル地方オーバンベルグ村での公演と交流を構想しているとのことです。

オーバンベルグ村は、伊那市長谷地区とほぼ同様な人口規模を持つ小さな村です。過疎という概念はなく、美しい自然を守り、地域の文化を誇りにしているその村の人口は100年前と変わらないのだそうです。

何故村人は都会に出ないのか?何故統一がとれた美しい景色を人々は作り出せるのか?何故特徴的な生活が成り立っているのか?

中尾歌舞伎保存会の人々は、この美しい村の人々との交流を楽しみにしているそうです。

伊那で起こったルネサンスの今後の動向を見守ると共に、天竜川水系の他の地域へこの活動が波及していけばどんなにいいだろうとわくわくする思いでいっぱいです。

(参考文献:静岡文化芸術大学 「静岡学」資料より)

2008年12月12日 (金)

冬を吹っ飛ばす祭

師走に入り、旧暦11月に行われる霜月祭がそろそろ始まっている頃です。

厳寒の頃、新春を迎える前に、神々を呼び出し、舞や楽で神々をもてなすこの祭。Tennryu0704_008

一年の穢れを祓い、新しい年がいい年であるように願う予祝祭でもあるのですが、なぜこの時期にと考えると、厳しい山間の自然の中で、弱まった陽の力を蘇らせる強い願いを担っているものでもあるのです。 

 

そう考えると、このような祭は日本だけなのか?と思えますが、やはり同様の祭が、アルプスの山々を抱き厳寒の地に暮らすチロルの町にも存在していることを知りました。

Chiroru_3   総面積の80%以上がアルプスの標高の高い山々で占められるチロルでは、人々は標高の高さと冬の寒さを凌いで孤立同然で自給自足の生活をしていました。そのため、チロルの渓谷では谷ごとに独自の文化や風習、方言などが誕生したのです。厳しくて過酷なアルプスの中で暮らすことは決して容易ではありませんでした。

この話は南信濃の「日本のチロル」と言われる下栗の里を思い起こさせます。

チロルに住む彼らの先祖たちは、太古の昔から冬の恐怖に慄き、春を待ちわび、春は冬を追い払うものとして、それぞれを象徴する仮面と仮装で飛び跳ねたり踊ったりする祭を行ってきました。それがキリスト教が布教されるにともなって、キリスト教の祭事として取り込まれていきました。これが「謝肉祭」です。

中でも四年に一度、アクサムス村で行われる「ファスナハト」の祭の中の「ヴァンベラーライテン」(…太っ腹の祭とでも訳されるのか?)は、チロルの人々の魂を感じさせる荒々しいものです。祭のそれぞれの役割は、先祖代々決まった家が行うもので、これも日本と共通していますね。

荒々しい大格闘が繰り広げられるこの祭は、まさしく「冬を吹っ飛ばす祭」なのです。

弱まったエネルギーを取り戻し、冬を吹っ飛ばし、春を呼び寄せる強い願いを秘めた祭が、三遠南信地域と同様、遠いアルプスのチロルでも行われていると思うと、厳しい自然に生きる人々の熱い想いを改めて感ぜずにはいられません。

                       (参考:季刊「民俗学」2008秋 「チロルの祭」)

2008年11月28日 (金)

神沢「おくない」田楽 30年ぶりの復活

浜松近辺の田楽系の民俗芸能としては、川名のひよんどり、寺野のひよんどり、懐山のおくないなどが有名ですが、その他に天竜区熊の南西部に位置する神沢地区、万福寺阿弥陀堂の「神沢おくない」があります。

この「神沢おくない」は、残念ながら昭和30年後半に途絶えてしまいました。その貴重な芸能を絶やさないように、昭和50年熊中郷土研究クラブが地元の古老の指導を受け、「神沢田楽」として活動を始めたのだそうです。

「ふるさとを愛し、大切にする」教育の一環として全校として取り組み、上級生が下級生に教え、伝える方式で受け継いできており、それは人口減少によって近辺4中学が合併し清竜中学校になっても今に至るまで延々と続けられているとのことです。

全校で取り組み、途切れることなく、継承活動をしているというのは本当に素晴らしいことですね。

神沢地区出身の石野重利さんは、この活動に自ら面を打って寄贈し、過去の資料を調べ「手引書」を作成、また中学校にも赴き、生徒への指導をされています。

石野さんは、学校頼みだけでの伝承活動ではいつか限界が来ると感じ、危機感を持って地域の人に取り組んでもらえるよう自主的に保存、伝承活動を始めたそうです。

ふとしたきっかけで、この石野さんと知り合い、昨日直接お話を聞いてきました。

膨大な資料をひとりで調べ作り上げ、手引書も、手書きで丁寧に、踊りのしぐさひとつひとつまで詳細に描かれており、その並々ならぬ熱意を強く感じました。

この「神沢おくない」が来年1月5日、30年ぶりの復活を果たします。

現在では「西神沢老人憩いの家」となっている、万福寺阿弥陀堂内において、中学生による田楽の舞が披露されます。記念すべきこの日には、この記録を残すべく、文化庁からも撮影に来るそうです。

石野氏は、今回の復活が「神沢おくない」の再生につながるきっかけになってくれればとおっしゃっていました。

阿弥陀堂は、寺野の三日堂(宝蔵寺観音堂)、渋川の四日堂(万福寺薬師堂)に対して五日堂を呼ばれていました。確かな文書が残っていず、その発生は定かではありませんが、少なくとも300年近くは続いていたと考えられ、もしかしたら500年以上の歴史かもしれないとのことです。

山深い里での一日限りの復活…山に響く久々の舞の調べは私たちに深い感慨をもたらしてくれそうですね。

(神沢おくないの資料の写しは、石野さんの了解のもと、私の手元にありますので、ご覧になりたい方はお申し出ください)

2008年10月27日 (月)

北遠・三河の芸能地巡りⅣ・花祭の里・東栄町へ

少し間が空きましたが、「芸能地巡り」最後の報告になります。記憶の箱をぼちぼち彷徨いながらお伝えしていくことにしましょう。

水窪の西浦田楽堂を後に、愛知県北設楽郡東栄町に向かったのは午後3時を過ぎた頃。まだまだ日が高いはずなのに、四方を山に囲まれたこの界隈ではすでに夕刻の雰囲気です。この先、日差しは日増しに弱くなり、山に遮られた日差しが山里を照らす時間はぐっと短くなっていきます。この山あいの村々で、もっともその力が弱まる冬至の頃に、太陽のエネルギーを求めて行われる神事が多いのがうなづける気がしました。

Touei2 現在花祭が行われているのは12ケ所、内11ケ所がこの東栄町に残っているということです。私たちが向かったのは「花祭会館」。この地域も時代の流れで、祭を継続できなくなる部落が増えているようですが、東栄町では、この会館の存在により、立ち寄る人にその素晴らしさをアピールでき、それにより継続のために力を貸してくれる県外の団体や祭事を伝承してくれる他県の子供たちも沢山いるとのことでした。  

Touei1 小さな会館で首を長くして待っていてくれたのは、会館の館長さん。花祭りの長い歴史、祭事の決まりごとなど、熱弁を奮ってくれました。                                                                     

                                                                 

 

                                        

Touei4会館の中は、その概観からは計り知れないのですが、かなりの充実ぶりでした。舞台も設置され、面の数々、衣装の数々…どれも目を見張らずにはいられないものです。                                          

                                             

 

                                              

 

花祭(はなまつり)の由来やその名の意味については不明な点が多いそうですが、今のところ、南北朝時代から室町時代にかけてこの地に入植した開発領主が、村々の寄り合い方式で祭礼を行い、そこに熊野・伊勢系統の湯立てを中心とした神楽が入り込んだものと考えられているそうです。そこに更に、田遊び的なもの、修験道儀礼的なものなど、様々な要素を取り混ぜ、江戸時代には現在の形になったと言われています。                                    

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表情豊かな沢山の面を見ているだけで、この祭りがいかに魅力的であるのかを彷彿とさせました。 Touei14   

 

 

 

 

 

                                                      

「眠い、煙たい、寒い」と言われる厳しい条件の中で行われるこの祭、やはり実際に目にしなければと決意を新たに、もうすっかり暗くなった山道を私たちは浜松へと帰ってきました。                       

                                                    

Touei12 ほんのちょっと足を伸ばした場所に眠っている祭の数々、皆さんも、ご自身の足で、目で、その世界を是非体験しに行ってみてください。  

Touei11

2008年10月 6日 (月)

北遠・三河の芸能地巡りⅢ・西浦田楽

引佐から水窪に向かった私たちは、途中の佐久間ダムで昼食をとり、次の目的地の西浦観音堂を目指しました。

降り立つ場所、場所でその歴史に触れ、長い時間を過ごしたために、その行程は予定の時刻からかなり遅れて進んでいました。

Nishiura1 観音堂で首を長くして待っていてくれたのは、能衆(のうしゅう)の一人の方。

「能衆」とは、この西浦田楽の大きな特徴の世襲制となっている演者のこと。翁川沿いの七集落の中の十七軒の家の者が、この「能衆」となっており、代々厳格な役割分担を担い、この伝統を守っているとのことでした。

この西浦田楽は、伝説によると、養老七年(779年)に行基がこの地を訪れ、観音像と仮面を奉納したのが創始といわれ、その年に現在の別当家(祭主)の先祖にあたる者が祭礼を始めたのだそうです。

現在は「西浦田楽」という名称が通っていますが、これは近年のもので、現地では単に「お祭り」とか「木の根祭り」とも呼ばれていたようで、その内容も、単に狭義の田楽にとどまらず、田遊び・猿楽能を中心として神楽風の「演目」も含んでおり、「おこない」の芸能というべきもののようです。このため、西浦田楽は、中世芸能のデパートとも言え、貴重な文化遺産なのだそうです。舞には「地能」と「はね能」の二種があり、それらは民間らしく野趣に富むものになっています。

Nishiura2 観音堂は車道から小高い丘へと続く坂を登っていった静かな山間にありました。汗を拭き吹き、枝の杖をつきながら着いた場所は、見晴らしがよく、爽やかな風が吹き抜けていました。能衆の方から貴重なお話を聞き、その中で、バスを運転してくださっている方も能衆のひとりであることがわかりました。こうして、いくつかの能衆の家の方が、他の土地に働く場所を求めて去っていき、その歴史が途絶えていく現実も感じることができました。

祭礼は旧暦一月十八日に行われるそうです。内容も想像以上に豊富なものなのだとわかり、大変魅力を感じましたので、是非当日にこの場所で味わってみたいと思います。

Nishiura3  

帰り道、坂道をしんどそうに登ってくる地元のおばあちゃんお二人に出会いました。「いい所ですね。」と声をかけると、「たまに来る人にはいいところかも知れないけどね…。」との返事。この先も守っていきたい自然や芸能、その裏には厳しい生活環境の中にいる人がいるのだと思うと、少し胸が痛くなりました。

そんな思いを頭の片隅に残しながら、私たちは、いつしか弱い光を放つようになった西の空に位置する太陽に向かって進むかのように、三河の東栄町を目指しました。この様子は次回お伝えします。

2008年10月 1日 (水)

北遠・三河の芸能地巡りⅡ・名残の農村舞台

横尾歌舞伎会館を後にした私たちは、かつて引佐地区に18ケ所もあり、その内現存する10ケ所の農村舞台の中の、いくつかの名残の場所を目指してバスを走らせました。

先ずは谷沢地区。のどかな田園地帯の一角にその舞台はありました。

神社の脇にポツンと建っていたバス亭を見ると、そこには一日たった一往復のバスの時刻表が記されており、なにか不思議に印象に残っています。

Butai4_2 神社を含む境内全体がビニールの屋根で覆われ、大切に守られているのだなと感じました。

舞台は歴史を感じさせるたたずまいで、閉ざされた木戸のために中に入ることは叶いませんでしたが、隙間から中の様子を窺い知ることはできました。 

Butai1_2 この舞台で歌舞伎が演じられることはもうありませんが、時折住民の演芸などを催す憩いの場所として愛されているとのことでした。                                         

                                                               

                                                          

次に向かったのは狩宿(かりしゅく)地区。

Butai6_2 ここの舞台は回り舞台も有するもので、建物自体もしっかりとしたつくりでした。ここも木戸によって中をしっかり見ることはできませんでしたが、木戸の割れた隙間から、ぼんやりとではありましたが、中の様子を感じることはできました。         

                                            

                                           

Butai5_2 舞台の前の広場から石段を登ると、趣のある六所神社があり、上の方から村全体を見守っているような気がしました。

静寂を破るようにバスで乗り付けた私たちを、腰の曲がったおばあちゃんが、いぶかしげに何度も何度も振り返って見つめていた様子が印象に残っています。

折しも、辺りは真っ赤な彼岸花が咲き乱れていました。緑の山々と田園地帯の風景に見事にマッチして、それは心癒される風景でした。                                                                

                                         

                                   

そこから、私たちは西黒田地区の舞台を車中から眺めながら、次の目的地の西浦に向かいました。その様子は次回お伝えします。 

Butai7_2  

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2008年9月29日 (月)

北遠・三河の芸能地めぐりⅠ・横尾歌舞伎

雨上がりの翌日の秋晴れの一日、9/27(土)北遠の民俗芸能ゆかりの地を巡ってきました。

これは、地元の静岡文化芸術大学の公開講座の番外編として企画されたフィールドワーク。天竜川水系の民俗芸能に詳しい須田教授の説明を受けながらの楽しい一日でした。

須田教授は、常々、天竜川水系が民俗芸能の宝庫ということから世界遺産に匹敵すると言われている方で、以前のコラムで紹介したことがある方です。

Yokoo8 先ずは引佐地区の横尾歌舞伎記念館の見学。ほんの少し足を伸ばしたところにあるのに、初めてその場所に足を踏み入れた私は、その歴史の深さに驚きました。

ここは、昔軽便と呼ばれた電車が走っていた頃、東四村(ひがしよむら)という駅があった地区だそうです。

横尾歌舞伎は、横尾地区の八桂神社、白岩地区にある六所神社の、二つの神社の祭礼の余興としておよそ200年ほど前に始まったものだそうです。この歌舞伎は、大阪から名古屋、新城を経て、旅役者によって伝えられたそうですが、地元の方は実際に歌舞伎の座の中に入り込み、修行を積んで、その技を習得したとも聞きました。

Yokoo9 記念館では地元の方から懇切丁寧な説明を受け、100点にも及ぶ衣装、200点にも及ぶかつら、道具類が大切に保管されている様も見学することができました。衣装の中には100年以上経っているものもあるということでした。

舞台は開明座と呼ばれ、修理を重ねてのものということですが、予想以上に立派な舞台で、大切に守られている様子が窺えました。

長い間継承され守られてきた裏側には、沢山の人々による苦労が隠されているのでしょう。かつて、横尾・白岩地区に生まれ育った青年は、若者組(歌舞伎の担い手のために作られた組)に所属し、舞台に立つことが半ば義務づけられていました。この義務を怠ると風呂焚きなどの制裁が加えられたそうです。

Yokoo10 現在は保存会の人々によって守られているこの横尾歌舞伎…来月にはその公演が次の通り予定されています。今年は小学校一年生による公演があるそうですので、是非その可愛い演技を観てみたいものですね。                                                       

                                                                                  

                           

                                              

                                                      

 平成20年度公演(10/11、12)

    午後6時~  於開明座(浜松市東四村農村コミュニティーセンター)

    浜松市北区引佐町横尾889番地の1    入場無料

    今年の演目予定はこちら

Yokoo7 最盛期には、横尾歌舞伎の開明座を含め、引佐町には18ケ所の舞台があり、その内10ケ所の舞台が現存し、開明座以外では歌舞伎の上演は行われていませんが、そのいくつかは住民の憩いの場として今でも利用されているようです。

開明座を後にした私たちは、次に、そのいくつかの舞台を目にするべく近郊の狩宿、谷沢地区を目指しました。その様子は次回紹介いたします。

2008年6月12日 (木)

めだかの学校大学院

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おもしろ人立「めだかの学校」では、平成4年9月開校以来、この6月をもって開校60回・15周年になるのを記念して6月6~7日の二日間だけの「めだかの学校大学院」を開催した。
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めだかの学校では、「建学の精神(こころ)」より「誰が生徒か先生か」の生徒の中から適宜先生を指名する全員参加型の「学校」を指向している。
また、もう一つの目的は「人と人の出会いと交流」で、西は福岡から北は秋田までネットワークが広がっている。今回は、三遠南信(静岡、愛知、長野)は勿論の事、福岡、東京、千葉、からも駆けつけてくれた。
特別講義として、哲学者の内山節先生の「結びあう思想~私たちは何を取り戻そうとしているのか!~」世界が転換期を迎えるなかで、個人としては自分を正当化しながら生きる動物としての人間の姿を浮彫りにして話してくれた。
交流会では、親交を暖めるのは勿論の事、踊り、マジックショーもでてプロ並みの演技を見せてくれた。Photo_4
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2008年3月10日 (月)

三遠南信文化考・謎を追う(その2)

なんだか難しい話…しかも長い話がしばらく続きますがこりずにおつきあい下さいね

今、私は自分の住んでいる地域に関するいろいろな本を読んでいます

長いこと生きているのに、すぐ近くにあるものについて、随分知らないことが沢山あることに驚かされる日々です

たとえば何度か訪れた神社の由来…なかには平安時代からなどという遠い昔からのものもあること、今や寂れた感のある場所にも栄華の時があったことなど

さて以前のコラムで天竜川水系が「世界遺産」の価値があるという話をしました

Matsuri3 前回に引き続き、I氏のコラムより、ある説を紹介しますので、皆さんも「一体どうしてこの地域にこんなに多彩な民俗芸能が生まれたのか」ご自分で考えてみてくださいgood

三遠南信になぜ民俗芸能が多いのだろう。花の舞,田楽,念仏踊りと,その数は日本の中で際立っているのです。 考えられる理由は次のもの。

①深い谷に集落があった。他所と隔絶していた。
②日本の割れ目,中央構造線は古事記の根の国に通じていた。氣の異常に強いところがある。
③お祭りが世襲制であった。
④心やさしい人たちが大事に守ってきた。

⑤三遠南信が地形的にすっぽりと繭のように覆われている。
⑥天竜川は神の通り道。諏訪信仰,秋葉信仰,鳳来寺信仰,豊川稲荷
⑦風,水の循環がほどよい。
⑧天竜川の水運,東山道,秋葉街道,三州街道などの古道が村々をつないでいた。

Matsuri30 祭りは昔の人たちの魂の形だとおもう。彼らが語りかけようとしたものが祭りの所作に表れている。
現代から古代までさかのぼるCGはTVでよく見かけるが、現代の技術でなく,民俗遺産にふれて個々に眠っている遺伝情報を呼び起こすことができたらどんなに素晴らしいことだろう。
ここは日本のミステリーラインともいうべき笠置・生駒・二上・葛城・金剛・高野・吉野・熊野のうちの二上にあたっていて、大津皇子伝承や中将姫伝説がのこっている。折口(歌人・国文学者・民俗学者である折口信夫氏)はこれらに取材し、古代の人の観念そのものとなっていく。
 物語は「めざめ」から始まる。太古の雫が「した した した」と垂れる塚穴の底の岩床でめざめたのは、死者である。この死者は射干玉(ぬばたま)の闇の中で徐(しず)かに記憶を呼び戻し、かつての耳面刀自(ミミモノトジ)に語りかける。
 死者の姉は伊勢の国にいる巫女だった。思い出せば、死者のおれは磯城の訳語田(おさだ)の家を出て、磐余(イワレ)に向かっていたようだ。そこには馬酔木が生えていて、そのとき鴨が鳴いたのまでは憶えている。姉がおれを呼んでいた。そこへ九人九柱の神人たちの声が聞こえてきた。どうやら藤原南家の郎女(いらつめ)の魂を呼んでいるらしい。
 物語の冒頭は、こうした幽明さだかならない時の境界をゆらめく記憶の断片が、あちらこちらに少しずつ湧き出して、まるで霧の谷の姿がうっすら見
えてくるように始まっていく。
中将姫が蓮糸で編んだという伝承のある曼陀羅だ。折口はこれを見つめ、これを読み、そこに死者の「おとづれ」を聞いたのである。そういう意味では、この作品は「古代の音の物語」でもあった。折口が耳を澄ました向こうから聞こえてくる者たちの物語なのである。
 「日本人総体の精神分析の一部に当たることをする様なことになるかも知れぬ」とも書いていた。これを綴ることが昔の人の夢を自分に見させてくれた供養になるのではないか
」と思ったそうである。
  折口がこの作品で語ろうとしたことは、日本人がもってきた知識や映像が次々に重なって焼き付けられたときに現れる「民俗」というものである。
 そこにはさまざまな儀式も関与すれば、信仰もかかわってくる。古代の人物の思惑や欲望にもかかわってくる。ひとつは山中他界の観念だった。これは山越阿弥陀や当麻曼陀羅に
つながっている。もうひとつは日想観である。夕陽が沈むところに浄土があるというものだ。これも浄土曼陀羅につながっていた。

なんだか幽玄の昔に引き戻されるような感覚を受けますね

私はまだそのひとつ「霜月祭り」しか体験していませんが、そこで土地の古老達に聞いた話は忘れることができません

語られない話もきっと沢山あったに違いない…守り続けていくということは、綺麗事だけでは済まされない大変なことも隠されているのでしょう

Matsuri29 でも彼らは、特に観光客に観られる意識はなく、長い間守っているものを淡々と…でもこぼれる笑顔を見せて、生き生きと舞っていました

「限界部落」と言われる厳しい環境に住みながら、それを守ろうとする近隣の学校の先生達のお囃子にあわせて踊る子供達の真剣な舞も忘れられません

何か私たちにできることはないか…それを考えながらこの世界を探検していきましょう

2008年3月 7日 (金)

三遠南信文化考・謎を追う(その1)

私よりずっと以前よりこの三遠南信地域に注目し、愛し、研究されている方がこの会には沢山sign01

その中のひとりI氏が以前書かれたコラムより抜粋したものを下記にご紹介します(多少編集をしています)

「何故、今三遠南信地域に注目するのか?」「何故芸能の宝庫と呼ばれる地域になったのか?」そのヒントflairになるはずですgood

【峠を越えて入る文化】

国は国境で囲まれ、分断されていると言えるが、国境を越境するものがある 。そのひとつは文化…峠を越えて文化は入ってくる。

シルクロードはフンジュラブ峠、カイバル峠など難関を越えていくし、アレクサンダーの遠征路も峠越えであった。壮大な峠越えによって文化はもたらされたと言える。

ミュンヘンからローマを歩いて、10里(40キロ)で風物が変わると気付く…それが郷土色。

Eyes0020_2 私たちの住む三遠南信地域と呼ばれるところはどうだろう。

秋葉さんまで10里、宿場町、53次、平均20キロにも満たないが、川越や峠越えに随分時間がかかった。三遠南信も峠を越えて文物がもたらされた。

塩の道、信仰の道、行商の道、芸能の道、分断したところを結ぶのが小道だ。

三遠南信は、一番分厚いところ、一番深いところ、中央構造線の通っているところ 、照葉樹林帯の東辺であり、そこには焼畑文化、谷の文化が生まれていった 。そんなに厚く、深く、厳しい自然の中でも、なお小道は通じている。

生活や産業は山と海との循環で成り立つ…天竜川の水運、風の通り道、南アルプスの水が、ここ三遠南信にはある。

【変わらない場所】

全国で五十ヵ所くらいしかない田楽が、三遠南信には十ヵ所以上もある。花祭りも加えれば、その数の多さはきわだっていると言えよう。

いくら祭り好きが多いからといっても、冬の季節に夜通しやるのだから、なまじっかのことではやっていられない。祭りが世襲されて代々受け継がれてきたこともあるだろう。

山深いから出口がなくて,そのまま残ったという場に特別な意味を持たせることも出来る。

諏訪湖を水口とする天竜川ならば、神の通い路といわれるのも意味あることだ 。日本の大きな割れ目、中央構造線が走るこの地域は、古事記の根の国に通じているのだろうか?

事実、分杭峠あたりでは氣が発生していて、連日人々が押し寄せる。ここにくると気持が安らいで、体にいいそうで、わたしも行ってみたが、肩こりは治らなかった。だからといって氣の磁場を否定するわけではない、たった数時間いただけだから…。

なにしろ三遠南信の森は弥生人の侵入を許さなかったくらいだから、谷の奥深くの集落は外部と隔絶されていて、独自の文化を守るのに都合が良かったといえないだろうか?

世界的に見て、古い習慣を大事にしているほうが圧倒的に多い。この半世紀、変わることばかり考えていた日本人も、そろそろ反省の時期にさしかかってきているように思う。