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祭り

2008年12月12日 (金)

冬を吹っ飛ばす祭

師走に入り、旧暦11月に行われる霜月祭がそろそろ始まっている頃です。

厳寒の頃、新春を迎える前に、神々を呼び出し、舞や楽で神々をもてなすこの祭。Tennryu0704_008

一年の穢れを祓い、新しい年がいい年であるように願う予祝祭でもあるのですが、なぜこの時期にと考えると、厳しい山間の自然の中で、弱まった陽の力を蘇らせる強い願いを担っているものでもあるのです。 

 

そう考えると、このような祭は日本だけなのか?と思えますが、やはり同様の祭が、アルプスの山々を抱き厳寒の地に暮らすチロルの町にも存在していることを知りました。

Chiroru_3   総面積の80%以上がアルプスの標高の高い山々で占められるチロルでは、人々は標高の高さと冬の寒さを凌いで孤立同然で自給自足の生活をしていました。そのため、チロルの渓谷では谷ごとに独自の文化や風習、方言などが誕生したのです。厳しくて過酷なアルプスの中で暮らすことは決して容易ではありませんでした。

この話は南信濃の「日本のチロル」と言われる下栗の里を思い起こさせます。

チロルに住む彼らの先祖たちは、太古の昔から冬の恐怖に慄き、春を待ちわび、春は冬を追い払うものとして、それぞれを象徴する仮面と仮装で飛び跳ねたり踊ったりする祭を行ってきました。それがキリスト教が布教されるにともなって、キリスト教の祭事として取り込まれていきました。これが「謝肉祭」です。

中でも四年に一度、アクサムス村で行われる「ファスナハト」の祭の中の「ヴァンベラーライテン」(…太っ腹の祭とでも訳されるのか?)は、チロルの人々の魂を感じさせる荒々しいものです。祭のそれぞれの役割は、先祖代々決まった家が行うもので、これも日本と共通していますね。

荒々しい大格闘が繰り広げられるこの祭は、まさしく「冬を吹っ飛ばす祭」なのです。

弱まったエネルギーを取り戻し、冬を吹っ飛ばし、春を呼び寄せる強い願いを秘めた祭が、三遠南信地域と同様、遠いアルプスのチロルでも行われていると思うと、厳しい自然に生きる人々の熱い想いを改めて感ぜずにはいられません。

                       (参考:季刊「民俗学」2008秋 「チロルの祭」)

2008年10月27日 (月)

北遠・三河の芸能地巡りⅣ・花祭の里・東栄町へ

少し間が空きましたが、「芸能地巡り」最後の報告になります。記憶の箱をぼちぼち彷徨いながらお伝えしていくことにしましょう。

水窪の西浦田楽堂を後に、愛知県北設楽郡東栄町に向かったのは午後3時を過ぎた頃。まだまだ日が高いはずなのに、四方を山に囲まれたこの界隈ではすでに夕刻の雰囲気です。この先、日差しは日増しに弱くなり、山に遮られた日差しが山里を照らす時間はぐっと短くなっていきます。この山あいの村々で、もっともその力が弱まる冬至の頃に、太陽のエネルギーを求めて行われる神事が多いのがうなづける気がしました。

Touei2 現在花祭が行われているのは12ケ所、内11ケ所がこの東栄町に残っているということです。私たちが向かったのは「花祭会館」。この地域も時代の流れで、祭を継続できなくなる部落が増えているようですが、東栄町では、この会館の存在により、立ち寄る人にその素晴らしさをアピールでき、それにより継続のために力を貸してくれる県外の団体や祭事を伝承してくれる他県の子供たちも沢山いるとのことでした。  

Touei1 小さな会館で首を長くして待っていてくれたのは、会館の館長さん。花祭りの長い歴史、祭事の決まりごとなど、熱弁を奮ってくれました。                                                                     

                                                                 

 

                                        

Touei4会館の中は、その概観からは計り知れないのですが、かなりの充実ぶりでした。舞台も設置され、面の数々、衣装の数々…どれも目を見張らずにはいられないものです。                                          

                                             

 

                                              

 

花祭(はなまつり)の由来やその名の意味については不明な点が多いそうですが、今のところ、南北朝時代から室町時代にかけてこの地に入植した開発領主が、村々の寄り合い方式で祭礼を行い、そこに熊野・伊勢系統の湯立てを中心とした神楽が入り込んだものと考えられているそうです。そこに更に、田遊び的なもの、修験道儀礼的なものなど、様々な要素を取り混ぜ、江戸時代には現在の形になったと言われています。                                    

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表情豊かな沢山の面を見ているだけで、この祭りがいかに魅力的であるのかを彷彿とさせました。 Touei14   

 

 

 

 

 

                                                      

「眠い、煙たい、寒い」と言われる厳しい条件の中で行われるこの祭、やはり実際に目にしなければと決意を新たに、もうすっかり暗くなった山道を私たちは浜松へと帰ってきました。                       

                                                    

Touei12 ほんのちょっと足を伸ばした場所に眠っている祭の数々、皆さんも、ご自身の足で、目で、その世界を是非体験しに行ってみてください。  

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2008年10月 6日 (月)

北遠・三河の芸能地巡りⅢ・西浦田楽

引佐から水窪に向かった私たちは、途中の佐久間ダムで昼食をとり、次の目的地の西浦観音堂を目指しました。

降り立つ場所、場所でその歴史に触れ、長い時間を過ごしたために、その行程は予定の時刻からかなり遅れて進んでいました。

Nishiura1 観音堂で首を長くして待っていてくれたのは、能衆(のうしゅう)の一人の方。

「能衆」とは、この西浦田楽の大きな特徴の世襲制となっている演者のこと。翁川沿いの七集落の中の十七軒の家の者が、この「能衆」となっており、代々厳格な役割分担を担い、この伝統を守っているとのことでした。

この西浦田楽は、伝説によると、養老七年(779年)に行基がこの地を訪れ、観音像と仮面を奉納したのが創始といわれ、その年に現在の別当家(祭主)の先祖にあたる者が祭礼を始めたのだそうです。

現在は「西浦田楽」という名称が通っていますが、これは近年のもので、現地では単に「お祭り」とか「木の根祭り」とも呼ばれていたようで、その内容も、単に狭義の田楽にとどまらず、田遊び・猿楽能を中心として神楽風の「演目」も含んでおり、「おこない」の芸能というべきもののようです。このため、西浦田楽は、中世芸能のデパートとも言え、貴重な文化遺産なのだそうです。舞には「地能」と「はね能」の二種があり、それらは民間らしく野趣に富むものになっています。

Nishiura2 観音堂は車道から小高い丘へと続く坂を登っていった静かな山間にありました。汗を拭き吹き、枝の杖をつきながら着いた場所は、見晴らしがよく、爽やかな風が吹き抜けていました。能衆の方から貴重なお話を聞き、その中で、バスを運転してくださっている方も能衆のひとりであることがわかりました。こうして、いくつかの能衆の家の方が、他の土地に働く場所を求めて去っていき、その歴史が途絶えていく現実も感じることができました。

祭礼は旧暦一月十八日に行われるそうです。内容も想像以上に豊富なものなのだとわかり、大変魅力を感じましたので、是非当日にこの場所で味わってみたいと思います。

Nishiura3  

帰り道、坂道をしんどそうに登ってくる地元のおばあちゃんお二人に出会いました。「いい所ですね。」と声をかけると、「たまに来る人にはいいところかも知れないけどね…。」との返事。この先も守っていきたい自然や芸能、その裏には厳しい生活環境の中にいる人がいるのだと思うと、少し胸が痛くなりました。

そんな思いを頭の片隅に残しながら、私たちは、いつしか弱い光を放つようになった西の空に位置する太陽に向かって進むかのように、三河の東栄町を目指しました。この様子は次回お伝えします。

2008年10月 1日 (水)

北遠・三河の芸能地巡りⅡ・名残の農村舞台

横尾歌舞伎会館を後にした私たちは、かつて引佐地区に18ケ所もあり、その内現存する10ケ所の農村舞台の中の、いくつかの名残の場所を目指してバスを走らせました。

先ずは谷沢地区。のどかな田園地帯の一角にその舞台はありました。

神社の脇にポツンと建っていたバス亭を見ると、そこには一日たった一往復のバスの時刻表が記されており、なにか不思議に印象に残っています。

Butai4_2 神社を含む境内全体がビニールの屋根で覆われ、大切に守られているのだなと感じました。

舞台は歴史を感じさせるたたずまいで、閉ざされた木戸のために中に入ることは叶いませんでしたが、隙間から中の様子を窺い知ることはできました。 

Butai1_2 この舞台で歌舞伎が演じられることはもうありませんが、時折住民の演芸などを催す憩いの場所として愛されているとのことでした。                                         

                                                               

                                                          

次に向かったのは狩宿(かりしゅく)地区。

Butai6_2 ここの舞台は回り舞台も有するもので、建物自体もしっかりとしたつくりでした。ここも木戸によって中をしっかり見ることはできませんでしたが、木戸の割れた隙間から、ぼんやりとではありましたが、中の様子を感じることはできました。         

                                            

                                           

Butai5_2 舞台の前の広場から石段を登ると、趣のある六所神社があり、上の方から村全体を見守っているような気がしました。

静寂を破るようにバスで乗り付けた私たちを、腰の曲がったおばあちゃんが、いぶかしげに何度も何度も振り返って見つめていた様子が印象に残っています。

折しも、辺りは真っ赤な彼岸花が咲き乱れていました。緑の山々と田園地帯の風景に見事にマッチして、それは心癒される風景でした。                                                                

                                         

                                   

そこから、私たちは西黒田地区の舞台を車中から眺めながら、次の目的地の西浦に向かいました。その様子は次回お伝えします。 

Butai7_2  

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2008年9月29日 (月)

北遠・三河の芸能地めぐりⅠ・横尾歌舞伎

雨上がりの翌日の秋晴れの一日、9/27(土)北遠の民俗芸能ゆかりの地を巡ってきました。

これは、地元の静岡文化芸術大学の公開講座の番外編として企画されたフィールドワーク。天竜川水系の民俗芸能に詳しい須田教授の説明を受けながらの楽しい一日でした。

須田教授は、常々、天竜川水系が民俗芸能の宝庫ということから世界遺産に匹敵すると言われている方で、以前のコラムで紹介したことがある方です。

Yokoo8 先ずは引佐地区の横尾歌舞伎記念館の見学。ほんの少し足を伸ばしたところにあるのに、初めてその場所に足を踏み入れた私は、その歴史の深さに驚きました。

ここは、昔軽便と呼ばれた電車が走っていた頃、東四村(ひがしよむら)という駅があった地区だそうです。

横尾歌舞伎は、横尾地区の八桂神社、白岩地区にある六所神社の、二つの神社の祭礼の余興としておよそ200年ほど前に始まったものだそうです。この歌舞伎は、大阪から名古屋、新城を経て、旅役者によって伝えられたそうですが、地元の方は実際に歌舞伎の座の中に入り込み、修行を積んで、その技を習得したとも聞きました。

Yokoo9 記念館では地元の方から懇切丁寧な説明を受け、100点にも及ぶ衣装、200点にも及ぶかつら、道具類が大切に保管されている様も見学することができました。衣装の中には100年以上経っているものもあるということでした。

舞台は開明座と呼ばれ、修理を重ねてのものということですが、予想以上に立派な舞台で、大切に守られている様子が窺えました。

長い間継承され守られてきた裏側には、沢山の人々による苦労が隠されているのでしょう。かつて、横尾・白岩地区に生まれ育った青年は、若者組(歌舞伎の担い手のために作られた組)に所属し、舞台に立つことが半ば義務づけられていました。この義務を怠ると風呂焚きなどの制裁が加えられたそうです。

Yokoo10 現在は保存会の人々によって守られているこの横尾歌舞伎…来月にはその公演が次の通り予定されています。今年は小学校一年生による公演があるそうですので、是非その可愛い演技を観てみたいものですね。                                                       

                                                                                  

                           

                                              

                                                      

 平成20年度公演(10/11、12)

    午後6時~  於開明座(浜松市東四村農村コミュニティーセンター)

    浜松市北区引佐町横尾889番地の1    入場無料

    今年の演目予定はこちら

Yokoo7 最盛期には、横尾歌舞伎の開明座を含め、引佐町には18ケ所の舞台があり、その内10ケ所の舞台が現存し、開明座以外では歌舞伎の上演は行われていませんが、そのいくつかは住民の憩いの場として今でも利用されているようです。

開明座を後にした私たちは、次に、そのいくつかの舞台を目にするべく近郊の狩宿、谷沢地区を目指しました。その様子は次回紹介いたします。

2008年8月17日 (日)

遠い夏の日の盆踊り

私の子供時代は昭和30年代。

その頃は、テレビゲームなどなくて、夏休みは陽が落ちるまで外で遊んでいたため、体中真っ黒になっていました。

子ども会の活動も活発で、川に泊まりのキャンプに出かけたり、バスで小旅行に出かけたり、家族単位より、同じ町の子供たちで過ごす時間が沢山ありました。

Fs_e1018m 今では考えられないことですが、町の夏休みの盆踊りに参加するのも楽しみでした。祭の前になると、公民館でいろいろな踊りを練習して準備をしました。そして、祭の当日はお母さんに着せてもらった浴衣姿でうきうきと会場に向かったものです。会場には様々な夜店も並び歓喜の声を上げながら夏の一夜を過ごしたのは懐かしい思い出です。

そんな盆踊りも最近はあまり見ることがなくなってきていますが、盆踊りは一体どういうことから始まったのでしょう?

盆には念仏踊や他の風流踊を仏の供養に踊ったものですが、その後、古風な輪踊を元にした「盆踊」と呼ばれる踊りが生まれ、これが全国的に広まっていきました。新盆の家々を訪れる所もありますが、多くは寺の庭や町の広場などに櫓を組み、老若男女が右、または左まわりの輪になり、笛、太鼓の囃子に合わせて踊ります。

この盆踊りは、一時代前までは特に農村漁村における唯一の大きな娯楽でしたが、明治、大正時代には、風俗を乱すという理由により厳しい取締があった歴史もあったようです。その後、復興されたところもあったようですが、以前ほど盛大なものに復活するにはいたらず、踊りと共に饗された即興的な歌(七七七五調)が歌われるうこともなくなったそうです。

日本のどこかには、まだ古来の盆踊りが残されている場所があるのでしょうか?もしかしたら、この三遠南信地区のどこかにも、昔ながらの盆踊りに興じて夏の一夜を楽しく過ごす人々がいるのかも知れません。

2008年6月 5日 (木)

龍山のブカ凧

6月1日、龍山のブカ凧を見に行った。20畳敷きの大凧を山の傾斜を利用して、うまく揚げるからたいしたものだ。戸数10件の小さな部落のお祭り。息が合わないとうまく揚げることは出来ないだろう。Photo
20畳敷きの大凧を揚げる瞬間。

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Photo_5大凧から下の方では、意気を合わせて綱を引く。
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今村純子さんの「魅力ある山里の暮らし」の中に、「そこにしかない、自然の恵みたっぷりの山のくらし。現代文明社会の中では、一寸不便さを感じる若者には敬遠されがちでも、そこに暮らす人々がなんと温和で、誰にでも親しみやすい人柄の多いことか。これは、きっと育つ、暮らしている環境がそうさせていると思えてならない。」とある。この部落の一軒が娘婿の実家である。この日は、我ら家族10人で押しかけて楽しませてもらった。