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    雲を耕す会

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2011年10月21日 (金)

秋葉街道 2

52_5秋葉寺 山門
庶民は白装束に身を固め,秋葉常夜燈を頼りにひたすら秋葉総本山を目指した。掛川から茶の香りをかぎながら森町へ出る。森町は次郎長一家の石松で有名だが,歴史を感じさせる静かな町である。町並みは鍵の手になっていて,車には不便だが,歩くのにいい。いかにも老舗といったお茶屋さんに寄ると,美味しいお茶を出してくれた。「この町は気のいい人ばかりでね」と女将さんがいう。茶箱が積んである横には,建て替え前のお店の写真が飾ってあった。なかなかの店構えだ。それもあってお茶を買ってしまった。
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古い店ばかりかというと,ドイツ仕込みのハムやソーセージを売る店があったりする。すぐ前のお味噌屋さんの味噌がまた美味しくて,近くのお菓子屋さんの梅衣も小さな城下町によく似合う。
天浜線の森駅から一つ目の一宮駅には百々屋という蕎麦屋がある。暖簾を上げるまもなく打ち止めになってしまう。手打ちだから注文に応じきれない。
昔は,森から秋葉山までけわしい道のりだった。秋葉街道といっても人と馬が並んで歩くのがやっとで,すれ違うのもままならなかった。旅人は秋葉常夜燈を頼りに秋葉道をのぼっていったのである。

2011年6月13日 (月)

秋葉街道 1

 秋葉山秋葉寺がある浜松市天竜区春野町は、遠州から天竜川を上って40キロほどのところに位置する。全国の秋葉寺の総本山で祈祷寺として信仰を集めている。
 53_2  標高866m の秋葉山から1,350mの龍頭山にかけての山域は、千古の昔から修験の道場として行者が荒行に励んだところである。物の本によると三尺坊は秋葉寺の護神とされる天狗のことで、修験者三尺坊を神格化した信仰が秋葉信仰と混同されて伝えられているが、秋葉寺の本尊は観世音菩薩である。三尺坊は、観世音菩薩の霊夢から生まれたとされ、白狐にまたがった天狗の姿で具形化されている。秋葉神社 下社

また、実在の修験者をさすとの説もあり、6~7歳で出家して越後国蔵王堂十二坊中第一の三尺坊のあるじとなって不動三昧の法を執したところ鳥形両翼の姿[観音様の化身迦樓羅(カルラ)]となったと伝えられている。
  秋葉信仰は、特に江戸中期になって爆発的なブームとなって全国に広がり、火防の秋葉講は総数3万余、信者数数百万を数えたとも称されるほどの全国規模の組織となっていた。そのブームについて知る手がかりのひとつとして旅日記がある。秋葉山参詣の記録でいちばん古いものは、明和2年(1765)に出羽国の人が記したもので、そのころには秋葉信仰が全国的に拡大しつつあったことを伺い知ることができる。

 興味深いのは、資料によると100点中69点が往路で東海道を利用して掛川宿から分岐して秋葉山へ入り、御油宿で東海道に戻って伊勢参りをすませ、復路は主に中山道を経由して信州善光寺などへ回っていることである。帰路に参詣した例も含めると100点中81点が旅の途中に秋葉詣でをしていることになる。

  このような旅日記を記す旅人は、ある程度余裕のある人が多く一概にはいえないが、当時の物見遊山の旅のコースの代表として秋葉詣でが含まれていたことは注目すべき点であろう。

秋葉山の霊験ご利益については『東海道名所図会』(1797)にも紹介され、人々は東海道を旅し、秋葉常夜燈から秋葉道を通って秋葉総本山をめざした。そのころの秋葉寺は、かなり大きな組織となっていたようである。そして三尺坊のイメージは民間信仰によって肥大化し、各地に新しい秋葉寺院が興されるようになった。この福天天狗がとり憑いたという話は、秋葉参詣ブーム当時に伝えられた話かもしれない。

2011年5月11日 (水)

やいやいの 遠州方言考  

和歌山大講師の沢村美幸さんは「日本語方言形成論の視点」(岩波書店)で面白いことを言っている。『失敗時の方言』には、モタ・サーサ・アキサミヨー…シマッタ、シモタ、アイター、サーサ、バッサリ、アキサミヨー……などがあるという。

030_2 失敗したときに思わず口にする言葉に多彩な地域差があることに注目して、全国798人の回答をもとに、失敗の感動詞の方言を14グループに分けて分析した。
 共通語的な言い方の「シマッタ」は東日本で、近い表現の「シモータ」「シモタ」は西日本で広く使われている。長野、新潟から東北にかけて分布するのは「サーサ」、近畿以西に多いのが「アイター」だ。静岡西部の「ヤイヤイ」、高知の「バッサリ」、沖縄の「アキサミヨー」など、ごく限られた地域で使われる言葉もある。

 朝日新聞 5月9日より 

「やいやい」が方言だなんて、ついぞ知らなんだ。ぼくの人生で最も多く使われた言葉は「やいやい」だろう。

これが遠州地方限定(会津地方の一部でも使われている)とは驚きである。でも、どこか愛嬌があって、遠州っ子らしくていい。「やいやい」の感嘆詞につづいて、「まあ、いいか」とすぐ開き直るところがある。そこが遠州人の気風である。

遠州人って走り出してから、なぜ俺は走っているのだろうと考える。 おっちょこちょいというか、単なるバカといおうか。だもんでしょっちゅう「やいやい」ってこいてるだにぃ。おえりゃあへんやー。

2011年1月24日 (月)

新野の雪祭り  下

Img271 四時を回っても悠然と演っている。とにかく省略はない。八百年、ずっと神と語りつづけ、踊り明かし、鎌倉時代と何も変わらない。繰り返してきたことが、重要無形文化財たる所以だ。ある年、いい加減にやったらお宮に火がつくわ、祭り衆の誰かが死ぬわ、凶作だわ、ろくなことがなかった。茂登喜は七回目を舞い終えて庁屋に消えた。神社に積もる雪が松明に照らされて白く光っている。見上げると、半月が天心にあった。凍れる月影、空に映えて、春を待ちわびて人々は舞う。神と共にいる喜びで、熱気がこもる。村に平和をもたらすとあれば、神への讃 (たた)えごとにも力が入る。

 つぎはお待ちかね、競馬(きょうまん)のお出まし。烏帽子をかぶった若者が、馬上豊かに乗り出してくる。馬は作り物だが、巧みな手綱さばきでそれらしく見える。若者が矢をつがえて弓を引くと、どよめきがあがる。矢が放たれると、その先へ見物人がわっと駆け寄ってくる。矢には悪霊退散の霊力がついているからだ。競馬は出し物のなかで人気が高い。役は前日に抽選で決まるので誰に回ってくるか分からない。何年か前に子供に役を果たしたこともあった。この日の若者は花形役者そのもの、格好いい。ただし一番手はだ。二番手は打って変わって、もう腰が抜けてしまいそう。かたや義経、こなた与太郎。
馬の次は牛が登場してきた。”お牛”は宮司が務める重要な神事で、拝殿に向かって矢を放つ。それは人が神に近づいて自然と一体となることだ。

そのころは夜が明けて、境内の雪が朝日に映えて輝きだした。翁と神婆(かんば)が現れて、抱き合いながらくるくるまわる。女の子が庁屋から飛び出してくる。あれまあ、あれは子作りダンスだったのか。神婚伝説、男神と女神一夜の交わり、産むは生産につながる。
最後は待ちに待った鬼の登場。三匹の鬼がどしどしと暴れまわる。荒魂(あらみたま)を、まわりの人々が抑えこむ。鬼の表情はどこか泣き顔に見えて、それほど怖くない。雪祭りのお面はほんわかあたたかくて、手作りの素朴のよさが残っている。鎮めの神に押さえつけられる獅子など、はじめから参ったという顔をしている。
大地に田遊びの踊り衆が舞って、予祝の祭りは終わった。今年は豊年満作に間違いない。長い時間がすぎて、雪の積もる新野の里を下って行った。

2011年1月 8日 (土)

新野の雪祭り  上

 旧  長野県阿南町新野  1月14日・15日
 小正月、新野の里に雪が降る。向こうの山も田も、雪がずんずんつもって真っ白になる。雪を稲穂の花にみたてて豊作の予兆として神前に奉る。祭の日に雪が降らなければ、二里も離れた峠まで取りに行かなければならない。
Img272_2  静かな山里に祭囃子が聞こえてくる。伊豆神社に向かうお上りの行列が、酒屋や魚屋が並ぶ街道を通り過ぎていく。笛、太鼓に腰鼓と、田楽パレードだ。花笠の白い紙がひらひらと風に舞う。白装束の男の子たちは「びんざさら」を首にかけ、市子と呼ばれる巫女さん役の女の子たちは、緋袴をはいている。どの子の頬もりんごのように赤い。通りは静かなままだ。軒先の祭り提灯がひっそりと寒さにふるえている。店の奥をのぞくと、五穀豊穣を表した餅花が大黒柱をはなやかにいろどっていた。
 夜更けて、出番を待つ庁屋(支度部屋)の壁を、見物人たちが丸太棒で叩きながら、「乱声(らんじょう)、乱声(らんじょう)」と叫びだす。悪霊を鎮める作法なのか、神々への催促なのか。呼び覚まされたように、御神火を移した宝船が、庁屋の軒下から大松明のてっぺんまで紐伝いによたよたと登っていく。行きつ戻りつ、なかなか進まない。船は始めから三度登っていくことになっているそうだが、そのもたつきぶりはとても演出とは思えない。やっと松明に点火され、境内は一転して薪能の舞台となる。
午前1時、雪祭りの庭開きだ。よろずの神が大松明を目印に、天から降りてきた(らしい)。  赤い手ぬぐいを頭に巻いて、羽織をまとった幸法(さいほう)が登場してきた。稲わらをぴんと撥ねた冠を頭に乗せ、神様というのにはちょっと情けない表情のお面をかぶって、ひょいひょいと踊りだす。稲わらの先には五穀の種がこめられている。右手に若松の枝、左手に四角い団扇を掲げて、三々九度と繰り返し踊る。里人の体を借りて降臨する神、幸法は、五穀豊穰、子孫繁栄を祈って舞い続ける。
そのまわりを白の神官姿の男たちが、田楽だけにある楽器「びんざさら」をサラサラと鳴らしながら、ぐるぐると回りだす。笛や太鼓の音が高まる。雪の中に眠っていた田の神様も、なにごとかと起き出す。見ていた女の子が拍子にあわせて体を動かす。
 小学校一年生くらいの男の子は、こんなに夜遅くまでつき合わされてかなわんなあという顔をして踊っている。しかも九回も繰り返されるとあって、足元がふらつきだす。いっぽう新野のエースと思しき若者は、きりりと表情をひきしめて、凛々しいばかりに踊り続ける。
 しんしんと冷えるなか、跳んだり撥ねたり、田楽はいつ果てるかわからない。観客にも疲労の気配がただよい出す。平という氏子が、囃し立てたりけなしたりして祭りを盛り上げる。最後に幸法は、手にした棒を美女に向けてとんとんとつっつく。あれまあ、受け手も陽気にやり返す。子宝は豊作に通じるのだよ。幕間に、野外だから幕は張ってないが、暖を取ろうと、正月飾りの松を積んだ焚き火に当たりに行く。煙が目にしみる。ねぶい(眠い)、さぶい(寒い)、けぶい(煙い)祭りだ。
 ついで茂登喜(もどき)がぴょんぴょんと踊り出してきた。調子がいい、二拍子のサンバ。お面は紅ガラに墨で描いただけの素朴なもの、口を開けて何ともとぼけた顔だ。お面をつけているということは、れっきとした神様なのだ。だが茂登喜はあまり良い神様ではないらしい。股を開いて腰を振り、棒切れをこすったりしている。まわりで「いよぉ、おとっつあん頑張って」などと冷やかす。「頼むよ、去年は七俵しか取れんかったから、今年はせめて八俵お願いします」。痛切なのにコミカル。「それやれ、もっとやれ」。調子が出てきたぞ。みんなは、これで今年は豊作間違いなしと囃し立てる。祭りは神への語りごと、讃(たた)えごとなのだ。技をみせて神を招き、村人の共同化を強めていく。

2010年11月19日 (金)

花祭り その1

霜月、木枯らしが落ち葉を巻いて吹きぬける。奥三河の集落では、花祭りが七〇〇年以上にわたって伝承されて来たという。日暮れて遠い山道を、花宿めざして訪ねていく。ちらりちらりと花祭りの火が見える。笛太鼓の音が聞こえてくる。どすんどすんと大地をゆるがして鬼が乱舞する。こわい鬼の祭りなのに花祭りという。
お祭りの舞台となる舞処(まいと)に、一夜だけ神様が降りてくる。花祭りは山人(やまびと)の信仰と修験者の宗教が結び付いて発展してきた。悪霊を追い払い五穀豊饒を祈る。南信濃の霜月祭り、遠州の佐久間の花の舞も同系列である。
旧暦の霜月ならば雪も舞う。よりによってこんな寒いときにやるなんて、しかも夜通し。古来,一番太陽の衰える冬至にお祭りをしてきた。これは世界中共通している。一陽来復、大地の下では春の命がひそやかに準備している。「ふゆ」は御魂(みたま)がフユ増殖のために篭(こ)もるという意味がある。冬祭りは、悪魔をはらい、収穫を祈る予祝行事である。寒いからこそ、なおのこと春を待ちこがれる。
祭りの日、花宿に作られた釜で湯立ての神事が執り行われる。花宿が農家の土間にしつらえてある場合は内花、お宮の庭では外花という。祭りを取り仕切るのは花太夫、命人(みょうど)が補佐をする。祭りが始まれば神聖な存在で、又さなどと気安く呼んではいけない。
千早という陣羽織のような衣装をつけた稚児が、若者に抱かれて登場してきた。花笠かぶって花の舞、あどけない手つきで舞う姿が初々しい。いちずな子どもたちにがんばってと声援が飛ぶ。ついで五,六匹のかわいい小鬼が跳ねまわる。こちらもかわいい。物心つけば祭の人となる。
祭りの最初の時間帯は、面をつけない素面の舞がつづく。笛、太鼓の音に合せて扇子と鈴を交差させる。扇子をひらひらさせるのは農耕民族の所作、鈴を振るのは神への振る舞い。テ-ホホテ-ホホの掛け声が、夜の山里に響きわたる。松明に導かれて山見鬼が見栄をきって登場する。えぃやぁとまさかりを振りかざして殴りこみをかける。せいとと呼ばれる見物衆は、わぁーわぁーと恐がって逃げる。もしかして楽しんでいるのかもしれない。
こんなに恐ろしげな鬼とはなんだろう。歴史上、敗者は勝利者によって鬼とされたから、消されていった者は陰(おん)と呼ばれた。鬼の語源である。だがここの鬼は、負のイメージがない。それどころか闇の世界からやってきて、地面を踏みつけて悪霊を追い出しにかかる。強く踏めば踏むほど、田んぼがならされるというありがたい鬼である。百鬼夜行などと、不当に貶(おとし)められた鬼の名誉を回復するために、花祭りはある。

2010年8月31日 (火)

早太郎の駆けた道 (下)

光前寺の和尚は、六部を先に帰させて、早太郎ひとり遠州に向かわせた。早太郎は狼の血を引く山犬であったから、山を駈けるくらいお手の物だった。
付では早太郎のことを悉平(しっぺい)太郎という。しっぺいは疾風に通じる。それほどに速いのだ。一説によると、空を飛ぶように走り抜けたとあるから、分杭峠、地蔵峠、青崩峠などわけもなかっただろう。常光寺山、竜頭山、秋葉山の尾根伝いに行ったかもしれない。駒ヶ根と見付まで直線距離で120㎞、信州と遠州を結ぶ秋葉街道を夜っぴいて駈けていけば、翌日には到着できたにちがいない。                         
                  

Img263_2 光前寺の早太郎

 早太郎とよく似た話が、全国で80カ所もあるという。場所が丹波だったり、甲斐だったりする。最期も天竜市の観音山であったり、青崩峠だったり、また光前寺に戻って、和尚さんに抱きかかえられながら息を引き取ったりという3通りの説がある。諸説はあるものの、光前寺に残された寺伝がもっともしっかりした構成になっていて、信憑性がある。もっとも寺の秘伝薬「健中丸」と結びつけてコマーシャルキャラクターになったという説もある。
 いずれにしてもこの伝説は秋葉信仰と結びつけて広がったのであろう。あの火祭りの荒々しい火渡りの行を見れば、六部は秋葉山の修験者のように思える。
 今年も9月、見付天神では、勇壮な裸祭りが、月の沈む暗闇の中で行われる。ご神体が御輿に担がれてしずしずと境内へ運ばれるあいだ、町中の灯りが消され、早太郎伝説さながらに、厳かな雰囲気が漂う。
 見付神社と光前寺には、どちらにも早太郎の像が祀られ、磐田、駒ヶ根の両市は、早太郎の取り持つ縁で友好関係を結んでいる。早太郎は光前寺に今も眠る。

 

2010年8月11日 (水)

早太郎の駆けた道 (上)

 Photo_5 昔、いつの頃ころからか旧暦8月10日の天神社の祭り近くになると、見付の里(磐田)で娘のある家の棟に白羽の矢が立つようになった。人身御供として娘を差し出すという泣き祭りであった。
 旅の六部(諸国を巡る修行僧)がその話を聞きつけて、人身御供の夜、物陰から様子をうかがっていると、娘を入れた柩の前に怪物が現れた。怪物は小躍りしながら「信州信濃の早太郎に知らせるな」と叫んだ。
 さて早太郎とは何者ぞと、六部は信州へ旅立つ。探し当てたのは人ではなく、赤穂村(駒ヶ根)の光前寺に飼われていた犬だった。
 翌年の人身御供の夜、柩の中に隠れていた早太郎は、怪物が現れるや飛びかかって、傷つきながらもついに怪物を倒した。怪物の正体は年老いたヒヒであった。
 深手を負った早太郎は、痛む足を引きずりながら信濃の見える峠までたどり着いたが、力つきてそこで息を引き取った。
                  *
 この話は伝説ながら、早太郎が死んだのは延亨元年(1308)と記されている。まるで史実に基づいているみたいだ。しかも、早太郎の霊に報いるために、天神社の社僧が写経して納めたという大般若経600巻が、光前寺に現存しているという。施入が正和5年(1316)とある。
 伝説はそのまま心に残しておけばいいのだが、妙に年号がはっきりしているのが気に掛かる。村の娘を救った早太郎が、死んでしまったなんてかわいそうじゃあないか。どうして、どうしてと物語が後を引く。もっとくわしく知りたい。信州を訪れることにした。
 なぜ怪物は遠い信州の早太郎を恐れていたのか。
 怪物は元々信濃に住んでいたのだが、村を襲ったとき、早太郎に追い立てられ、命からがら遠州に逃げたのだという。
 六部が早太郎を見つけたのは、祭りも間近にせまっていたから、一刻の猶予もなかったはずだ。
 

2010年7月22日 (木)

三遠南信文化圏

81 「日本は谷の文化」と司馬遼太郎は書いている。三遠南信そのもののようで、この地域に、わが国の文化の基層が色濃く残っているのはそのためである。

三遠南信の谷々には、ずっと変わらない暮らしが、今なお息づいている。人々の心の中に、伝統文化を守り育ててきたというより、それしかなかったからという素朴な思いがある。その気負いのなさが文化論を越えて、地域の風土の中にうまくとけあっている。
 名もない人たちが、語ってくれた物語こそ、素朴さゆえに、詩のように美しい。学術的ではないかわりに、さりげない心情が綴られている。三遠南信の谷々を訪ね歩いて、聴き取ったことがらは、民俗学的に貴重である。せわしい日々の暮らしの中で、心の拠り所になる。
 

3_2  三遠南信(三河・遠州・南信濃)の県境を越えて、人と文化の交流が見られる。それは、三遠南信は一つの地域であったという、歴史を再認識することでもある。
 天竜川水系の地域に残る基層文化は、川と街道によって結びついていった。山と海を行き来する塩の道が、遠州灘から諏訪湖まで続いていた。秋葉信仰の人々の行き来する道となり、秋葉街道へと発展してきた。
 川は文化も伝える。花祭りが三つの地域の村々に見られるのも、川が運んでくれた文化である。見付の早太郎は信濃の光前寺へと走り、桜が池のおひつは諏訪湖へ流れ着くといわれている。思えば何千年も前から川と道のネットワークが地域を形成してきたのだ。
 しかし現代という時代は、そのネットワークを切れ切れにしてしまった。だれが網のほつれを縫うのだろうか。
 三遠南信に住む普通の暮らしをしている人々、どんな人にだって語るに足る話の一つや二つ、胸の内に秘めている。そんな人々の暮らしの息づかいを伝えていきたい。
 三遠南信を分け入っていくと、心のうちがいつまでもほこほこと暖かいのは、歳月の降り積もる重なりだろうか。舞い下りる落ち葉が地面を暖めるように。
 地方からしか見えてこないもの、それは日本人が忘れてきた大切なものかもしれない。

清流のきらめき、土の匂い、森の樹々、砂浜の貝殻、煙突の煙、年寄りの居場所、小道の向こう、季節のうつろい、透明という色、等々が発信されていく。

2010年5月13日 (木)

あばれ天竜の歩み(その1)

10_5 天竜川…我々遠州地方に住む者にとって馴染みの深い川cloud

かつては「あばれ天竜」と呼ばれた豪壮な川であったといいます。静かにその流れを見せる姿からは到底想像もできない名ですね。

「天竜」と言う名は、古の神と連なる匂いを感じさせる川でもあります。事実、古い文献に現れるこの川の名称は「麁玉(あらたま)河」とか「荒玉河」と表記されていたそうです。

古の世界では、川は水の神(女神)が禊(みそぎ)をする場所とされ、それゆえに聖なる川をアラ川もしくはタマ川と呼んできました。関東平野を流れる荒川も多摩川もかつては皆聖なる川であったのでしょう。

その後我が天竜川は、二度三度とその名を変えていきました。「広瀬川」とか「天中川」と呼ばれていた時代もあり、現在の「天竜川」の名が文献に現れるのは1200年代になります。

こんな記載が「東関紀行」にあるそうです。(天竜川の様子のスケッチ)

 天竜と名づけたたる渡りあり。川深く、流れ激しく見ゆ。 この川水まされる時、舟なども自ら覆りて底の水層となる類多しと聞くこそ、いと危ゆき心地すれ。

これは下流の池田の渡しの船の様子を表したものだといいます。この記述から当時の天竜川のあばれぶりが想像できますねsign01

この頃から「天竜川」という名称が定着していったようですが、もともと聖なる川と仰がれてきたこの川の名称が「天竜川」と呼ばれ定着していった背景には、中世以降生まれた「竜蛇信仰」と深く結びついていったと言われています。

いよいよ天竜の「竜」の登場ですね。またこの続きは次回に紹介することにしますgood

「あばれ天竜」の歴史は本当に興味ぶかく、自然に古のドアを開けてしまいます…shine

    ☆参考文献:天竜川水系の世界観「神のかよい路」後藤総一郎著

                                      (mamesan記)