マスタープラン

団体組織

  • NPO法人
    (特定非営利活動法人)
    雲を耕す会

    (事務局)
    〒431-3314
    静岡県浜松市天竜区
    二俣町二俣979-1
    TEL/FAX 
    053-925-2792

2010年8月31日 (火)

早太郎の駆けた道 (下)

光前寺の和尚は、六部を先に帰させて、早太郎ひとり遠州に向かわせた。早太郎は狼の血を引く山犬であったから、山を駈けるくらいお手の物だった。
 見付では早太郎のことを悉平(しっぺい)太郎という。しっぺいは疾風に通じる。それほどに速いのだ。一説によると、空を飛ぶように走り抜けたとあるから、分杭峠、地蔵峠、青崩峠などわけもなかっただろう。常光寺山、竜頭山、秋葉山の尾根伝いに行ったかもしれない。駒ヶ根と見付まで直線距離で120㎞、信州と遠州を結ぶ秋葉街道を夜っぴいて駈けていけば、翌日には到着できたにちがいない。                         
                  *
 早太郎とよく似た話が、全国で80カ所もあるという。場所が丹波だったり、甲斐だったりする。
 最期も天竜市の観音山であったり、青崩峠だったり、また光前寺に戻って、和尚さんに抱きかかえられながら息を引き取ったりという3通りの説がある。諸説はあるものの、光前寺に残された寺伝がもっともしっかりした構成になっていて、信憑性がある。もっとも寺の秘伝薬「健中丸」と結びつけてコマーシャルキャラクターになったという説もある。
 いずれにしてもこの伝説は秋葉信仰と結びつけて広がったのであろう。あの火祭りの荒々しい火渡りの行を見れば、六部は秋葉山の修験者のように思える。
 今年も9月、見付天神では、勇壮な裸祭りが、月の沈む暗闇の中で行われる。ご神体が御輿に担がれてしずしずと境内へ運ばれるあいだ、町中の灯りが消され、早太郎伝説さながらに、厳かな雰囲気が漂う。
 見付神社と光前寺には、どちらにも早太郎の像が祀られ、磐田、駒ヶ根の両市は、早太郎の取り持つ縁で友好関係を結んでいる。早太郎は光前寺に今も眠る。

 

2010年8月11日 (水)

早太郎の駆けた道 (上)

 Photo_5 昔、いつの頃ころからか旧暦8月10日の天神社の祭り近くになると、見付の里(磐田)で娘のある家の棟に白羽の矢が立つようになった。人身御供として娘を差し出すという泣き祭りであった。
 旅の六部(諸国を巡る修行僧)がその話を聞きつけて、人身御供の夜、物陰から様子をうかがっていると、娘を入れた柩の前に怪物が現れた。怪物は小躍りしながら「信州信濃の早太郎に知らせるな」と叫んだ。
 さて早太郎とは何者ぞと、六部は信州へ旅立つ。探し当てたのは人ではなく、赤穂村(駒ヶ根)の光前寺に飼われていた犬だった。
 翌年の人身御供の夜、柩の中に隠れていた早太郎は、怪物が現れるや飛びかかって、傷つきながらもついに怪物を倒した。怪物の正体は年老いたヒヒであった。
 深手を負った早太郎は、痛む足を引きずりながら信濃の見える峠までたどり着いたが、力つきてそこで息を引き取った。
                  *
 この話は伝説ながら、早太郎が死んだのは延亨元年(1308)と記されている。まるで史実に基づいているみたいだ。しかも、早太郎の霊に報いるために、天神社の社僧が写経して納めたという大般若経600巻が、光前寺に現存しているという。施入が正和5年(1316)とある。
 伝説はそのまま心に残しておけばいいのだが、妙に年号がはっきりしているのが気に掛かる。村の娘を救った早太郎が、死んでしまったなんてかわいそうじゃあないか。どうして、どうしてと物語が後を引く。もっとくわしく知りたい。信州を訪れることにした。
 なぜ怪物は遠い信州の早太郎を恐れていたのか。
 怪物は元々信濃に住んでいたのだが、村を襲ったとき、早太郎に追い立てられ、命からがら遠州に逃げたのだという。
 六部が早太郎を見つけたのは、祭りも間近にせまっていたから、一刻の猶予もなかったはずだ。
 

2010年7月22日 (木)

三遠南信文化圏

81 「日本は谷の文化」と司馬遼太郎は書いている。三遠南信そのもののようで、この地域に、わが国の文化の基層が色濃く残っているのはそのためである。

三遠南信の谷々には、ずっと変わらない暮らしが、今なお息づいている。人々の心の中に、伝統文化を守り育ててきたというより、それしかなかったからという素朴な思いがある。その気負いのなさが文化論を越えて、地域の風土の中にうまくとけあっている。
 名もない人たちが、語ってくれた物語こそ、素朴さゆえに、詩のように美しい。学術的ではないかわりに、さりげない心情が綴られている。三遠南信の谷々を訪ね歩いて、聴き取ったことがらは、民俗学的に貴重である。せわしい日々の暮らしの中で、心の拠り所になる。
 

3_2  三遠南信(三河・遠州・南信濃)の県境を越えて、人と文化の交流が見られる。それは、三遠南信は一つの地域であったという、歴史を再認識することでもある。
 天竜川水系の地域に残る基層文化は、川と街道によって結びついていった。山と海を行き来する塩の道が、遠州灘から諏訪湖まで続いていた。秋葉信仰の人々の行き来する道となり、秋葉街道へと発展してきた。
 川は文化も伝える。花祭りが三つの地域の村々に見られるのも、川が運んでくれた文化である。見付の早太郎は信濃の光前寺へと走り、桜が池のおひつは諏訪湖へ流れ着くといわれている。思えば何千年も前から川と道のネットワークが地域を形成してきたのだ。
 しかし現代という時代は、そのネットワークを切れ切れにしてしまった。だれが網のほつれを縫うのだろうか。
 三遠南信に住む普通の暮らしをしている人々、どんな人にだって語るに足る話の一つや二つ、胸の内に秘めている。そんな人々の暮らしの息づかいを伝えていきたい。
 三遠南信を分け入っていくと、心のうちがいつまでもほこほこと暖かいのは、歳月の降り積もる重なりだろうか。舞い下りる落ち葉が地面を暖めるように。
 地方からしか見えてこないもの、それは日本人が忘れてきた大切なものかもしれない。

清流のきらめき、土の匂い、森の樹々、砂浜の貝殻、煙突の煙、年寄りの居場所、小道の向こう、季節のうつろい、透明という色、等々が発信されていく。

2010年5月13日 (木)

あばれ天竜の歩み(その1)

10_5 天竜川…我々遠州地方に住む者にとって馴染みの深い川cloud

かつては「あばれ天竜」と呼ばれた豪壮な川であったといいます。静かにその流れを見せる姿からは到底想像もできない名ですね。

「天竜」と言う名は、古の神と連なる匂いを感じさせる川でもあります。事実、古い文献に現れるこの川の名称は「麁玉(あらたま)河」とか「荒玉河」と表記されていたそうです。

古の世界では、川は水の神(女神)が禊(みそぎ)をする場所とされ、それゆえに聖なる川をアラ川もしくはタマ川と呼んできました。関東平野を流れる荒川も多摩川もかつては皆聖なる川であったのでしょう。

その後我が天竜川は、二度三度とその名を変えていきました。「広瀬川」とか「天中川」と呼ばれていた時代もあり、現在の「天竜川」の名が文献に現れるのは1200年代になります。

こんな記載が「東関紀行」にあるそうです。(天竜川の様子のスケッチ)

 天竜と名づけたたる渡りあり。川深く、流れ激しく見ゆ。 この川水まされる時、舟なども自ら覆りて底の水層となる類多しと聞くこそ、いと危ゆき心地すれ。

これは下流の池田の渡しの船の様子を表したものだといいます。この記述から当時の天竜川のあばれぶりが想像できますねsign01

この頃から「天竜川」という名称が定着していったようですが、もともと聖なる川と仰がれてきたこの川の名称が「天竜川」と呼ばれ定着していった背景には、中世以降生まれた「竜蛇信仰」と深く結びついていったと言われています。

いよいよ天竜の「竜」の登場ですね。またこの続きは次回に紹介することにしますgood

「あばれ天竜」の歴史は本当に興味ぶかく、自然に古のドアを開けてしまいます…shine

    ☆参考文献:天竜川水系の世界観「神のかよい路」後藤総一郎著

                                      (mamesan記)

2010年3月14日 (日)

やらまいか

1  とかく人はいろいろ理屈を言って前へ進もうとしない。熟考深慮といえば、それjまでだが・・・

そこへいくと遠州人なんか、走り出してから考えるもんね。その結果、よくこける。

 やってみなくちゃあ何も生まれない。

 その心意気たるや、浜松祭りの檄練りみたいなもんです。オイショオイショと練る姿はまさに遠州人です。威勢が良くて何も考えていない。単なるおっちょこちょいというか、だめなら「まあいいっか」ってんで、諦めがいい。そしてまた挑戦をする。打たれ強いんです。とにかく能天気なくらい活気がある。よくいう「やらまいか精神」です。なんしょかんしょ、やっちゃう。

 それというのも、古来、物と人がしょっちゅう行きかっていたからだ。物流の盛んなところに産業は発展する。東海道はもちろんですが、秋葉街道の存在が大きい。秋葉信仰の道と同時に海と山とを結んでいた塩の道だった。
 昔は水運が経済を動かしていた。天竜川はまさに産業道路みたいなものだった。木材をはじめ銅、紙など時代を映して船で運ばれていた。
 黒潮文化もはいってきた。分棟屋敷、熊野の海人族。異質なものが頻繁に行き来していたということは、時代の動きに敏感だということです。時代を先取りする知恵みたいな、新しいものを取り入れる進取の精神が遠州の風土となっていったのではないだろうか。
 なんでも自前でやっちゃうというのは、遠州人の特色です。というのも歴代の殿様が自分の立身出世のことしか眼中になくて、領民のことをちっとも考えてくれなかった。もっとも代表的なのが水野忠邦、このひと借金を踏み倒して自分だけ老中になっちゃった。天保の改革をやろうとして、散々反対に遭い、くびになるのですけど。
 そんなわけでわが殿様がいないものですから、俺たちだけで「やらまいか」ということになっちゃった。上の人をきょろきょろ見ていたら何もでききない。

 お上なんて、知っちゃういないよ、ハトポッポ。イタリア的ですね。そういえば遠州弁って、喋り方がイタリア語に似ている。いったらー、わかったらー、ばかだらー。

2010年2月25日 (木)

四里四方は薬

昔、卓袱台なんてものがありました。春の頃はタマネギを薄く切ってシラス干をかけたの、筍に椎茸、蕨なんかの山菜を合えたのなんかが並んでいました。アサリ、サヨリ、初鰹も初夏が旬。アサリなんザ応えさらん。うまさが乗っている。初夏を過ぎるとジャガイモです。
8  給食人気No1 カレーシチュー 元祖海軍カレ

 小学の給食人気ナンバー1はカレーシチュー、あのジャガイモごろごろしたのです。お母さんの味でもあります。神奈川県横須賀に海軍学校があって、そこで出されたカレーが元祖です。ジャガイモとタマネギは三方原と篠原産だったってことは案外知られていない。自衛隊浜松基地の元司令官の話。全国自衛隊の最も人気メニューはカレーライス、なかでも浜松のカレーが一番です。それはジャガイモとタマネギのよさにある。
 ミカン、ナシ、メロン等果物は豊富、最近はレタス、エシャロット、子持ちカンラン等西洋野菜も人気が高い。キュウリ、トマト、ナス、もう夏野菜は何でも美味しい。ただし路地物に限ります。というのは「四里四方は薬」だからです。地のものを食べていりゃあ体にいいってことです。そりゃあそうです。旬のものはうまいし、栄養もある。
 舞阪港に行くと、シラス漁が盛んです。あれ2艘の船で網を引いてとりに行く。浜名湖の伝統漁法も健在です。角立て網、ボラたたき。入出の佃煮屋、おいしいですね。うなぎ、すっぽん、カキ、ドウマン、上げていったら切がない。
 10_4 浜納豆、あれは安いです。5粒でご飯一杯食べられる。紫蘇(しそ)巻きも安い。遠州ほど食に恵まれたところはない。
 食文化は風土です。気候がいい。雪が積もらない。それはそれでさびしいけど、12月の日照時間は世界一です。砂漠みたいなところは除きますけど。それに地形がそろっている。海、湖、川、平野、台地、森、山地、ないものがない。それだけ取れるものが豊富だということです。その中に入るかもしれないけれど、水に恵まれている。風にも恵まれているというか、まあ迷惑なところもありますが、三方原大根とかですね。空っ風は食べ物にも影響しているわけです。

2010年2月 7日 (日)

三河田楽…存続の危機

国の重要無形民俗文化財「三河の田楽」のひとつである「黒沢田楽」が存続の危機に瀕しているとの記事を目にしました。(2月6日付け中日新聞 社会12面)

「黒沢田楽」は、愛知県新城市七郷一色の黒沢地区に伝わるもの。静岡県境の山奥にあり、源氏の落人が開いた集落で、この田楽は五穀豊穣を祈願して鎌倉時代に始まったとされています。

存続の危機は、言わずと知れた「過疎化」「高齢化」によるもの。同様の問題は他の民俗芸能を伝承する地域が抱えるものです。

現在の舞手はたったの4人…若くて50代後半、上は80歳近い方もいるそうです。林業の衰退で若者の流出が続き、現在に至るといいます。憂いてもどうにもならない現状に、街に住む私たちはただ眺めているしかできないのでしょうか?

田楽踊り、田楽能、猿楽能、田遊びで構成される黒沢田楽には37の演目があり、これまで地元の在住者だけで継承してきましたが、今後は鳳来寺田楽などと同様に地元以外の外部の協力を検討せざるを得ないということです。

こんな危機を抱えて、「黒沢田楽」が本日(2月7日)午前11時から午後3時頃まで阿弥陀堂で催されます。支援の動きが活発になり、存続の危機をなんとか乗り越えて欲しいと切に願います。

今後も続く同様の危機をくいとめるのは、やはり山を元気にすることでしょう。

山を元気にし、人々が再び里山に戻ってくる日のために、まずできることから始めていかなければと改めて思います。

                                                                                                                        (mamesan 記)

2010年1月20日 (水)

エコロジーを最初に唱えたひと、南方熊楠

南方熊楠(みなかたくまぐす)は日本で最初にエコロジーという言葉を使った。

1867年、和歌山市の金物屋に生まれる。18867年、大学などの学歴を意味なしとして 渡米した。 
1891 25歳のとき、曲馬団に入り、キューバ、ジャマイカ、ベネズエラを巡歴した。奇人としかいいようがないが、知の巨人といわれる出発点となった。
1892 渡英。8年間に大英博物館でノートを作る。科学雑誌ネーチャーに投稿して世に知られるようになる。大乗仏教と科学という対立した概念を、「南方曼荼羅」の独創的なモデルへと変換していく。

異質な者の間の対立と、それらの間に新しい結びつきを創り出すための強烈な意志と執念に人間的スケールの大きさを感じる。概念と内念の融和によって創造性は高まった。
「南方曼荼羅」は、漂泊の経験から東洋の智と西洋の知とを自己の中で格闘させて、構築されていった。それまでの知の集積を、自己の内部で発酵させたといってよい。
帰国後 田辺 那智で山野を跋扈 粘菌学に没頭。南方は森と深くかかわるようになる。

                1981_2      

                     熊野古道      

1888年、市町村制が公布された。 

町村合併により、一つの村に2つ以上の産土社をもつ事態となった。国はどちらか一つにせよと指令を出した。その結果和歌山県は、87%の神社が消滅する憂き目にあった。神社を国の都合でつぶすとは何事か、南方は怒った。

1909年、神社合祀反対運動を起こす。鎮守の森を守れ。神社は日本人の魂であるとして、8項目の反対理由を掲げた。
 
①敬神の念を減殺する
②人民の融和を妨げる
③地方を衰微させる
④庶民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を乱す
⑤愛郷心を損す
⑥土地の治安と利益に大害
⑦勝景史跡と古伝を隠滅す
⑧環境の全体保全によって、それぞれ固有の植生が保たれる。

彼のエコロジーの思想にもとずく日本最初の環境保全運動である。研究分野の、粘菌に沿って、説得性を増していった。粘菌は高層、中層、低層の植物が重なり合った一番下の湿地に生息する。多様な植物の相互補完と循環の構造を、エコロジーの第一義においた。
樹木は神の依り代 高い木から神々は降りてくる。草木に神宿る。アニミズムの進行に基づくタブーが、数千年、数百年の間、神域の生態系を守ってきた。
雑木林は保水が抜群である。田に水を供給する。水源に鎮守を築き、樹木を植え、タブーによって守ることを通して、水を豊かに保ってきた。
地球の自然生態系の全体的保全と、侵害されたときに、結果として、地域住民の生活が脅かされることの総体としてとらえた。神社の樹木が取り払われると、田畑の害虫駆除に役立つ鳥が来なくなる。海辺の神社の森は魚着き林である。
神社が遠くに行ってしまうと、住民の信仰心は薄れる。天然の風景が破壊されると、どのように教育に悪影響が及ぶか。
わが国の天然風景は、わが国の曼荼羅ならん。景色を眺めて、何となく至道をぼんやりと感じ得(真如)る。
地域住民の強固な意志がなければ、外からの応援や圧力によって、自然を守ることができない。
地球的規模での普遍的な問題である。地球は一つであることを足下で捉える。

雲を耕す会の掲げた目標と通じる。南方によって励まされた気がする。
1941年没。 今、熊野古道は世界遺産にもなって、大変なブームを巻き起こしている。もし南方熊楠がいなかったら、熊野古道は存在していたかどうか。もって瞑すべきである。

2009年11月14日 (土)

少年に返る道  その2

 3_3                  子供の頃の笑ったり泣いたり怒ったりした記憶は,ズック靴で歩いて行った場所のどこかに隠されている。 
 冒険は歩いて行った先にあった。こわい,どうしよう,引き返そうか。迷いながらも恐いもの見たさで仲間と一緒に付いて行く。弱虫と言われるのがいやだったし,みんなと一緒なら恐くないという群集心理も働いて,冒険へと歩を進める。
 森,鉄橋,谷。遠く離れた異界こそ,冒険心を満たすものはない。知らない場所に分け入って,新たな世界が広がっているのを知ったとき,今までの自分から脱皮したような気がした。
               *
 歩くことはいたわりなのだ。ご足労かけてと言うではないか。はるばる訪ねて行くからこそ,会えば嬉しくもなるし,感激もする。かわいそうなお話は,遠くまで足を引きずりながら歩いて行く場面が必ずあった。『母を訪ねて3千里』など読まない前からほとんど涙していた。そんなにも会いたいのかマルコ少年、ぼくがついてる、がんばれと何度叫んだことか。
 歩くことは大変だ。たとえいばらの道でも歩いていかなければならない。日暮れて道遠し,まあ地道にぼちぼち歩いていきまひょ。割に合わない不器用な生き方こそ歩きの本道といえる。
 順風満帆なときは、追手に帆懸けてシュラシュシュシュだ。願いが叶ったときは、空飛ぶ思い。うまくいっているときは道など歩いていない。
 中学校で習った英語の教科書には,ジャックのお父さんは車で通勤していた。それだけでアメリカという国は,とても豊かな国に思えた。歩かない豊かな生活は夢のまた夢だった。だからリヤカーでも乳母車でも、車のついているものなら何でもいいから乗せてもらいたかった。荷車に乗せてもらったときは、ちょっぴり偉くなったような気がした。
     

2009年11月12日 (木)

少年に返る道  その1

                                                                                                                                                  今でこそウォーキングなどとことさらに言うが,昔は毎日がウォーキングだった。お使いは子供にとって大事な役割だったから,毎日のようにお店やさんに行かされた。豆腐や,魚屋,八百屋,主に食べ物やが多かった。豆腐は鍋をさげて行った。お使いはそんなに遠くまで行ったわけではなく,せいぜい300メートルの範囲内だった。鳥の餌とか提灯などよほどのものでなければ、自転車で買い物に行かなかった。
                                                                                                                                                       

015 お使いのみならず,日常的なことは歩かニャア事が運ばなかった。出迎えも見送りも,拾ってきた猫を捨てに行くのも歩いていった。野良へお昼を届けたり,馬の世話をしたり,今よりずっと歩くことが多かった。山の子は学校に行くだけでも大変だった。
 遠足はもちろん歩き。お宮参りや七五三のお参りも,野辺の送りも役場に行くのもすべて歩きだ。恋文を渡すのも歩いた時代の出来事だった。子供の日々は,歩くか走るか登るか逃げるかのどれかだった。失敗は転ぶか落っこちるか捕まるかのどれかだった。
 子供の頃の遠い知らない世界は,今考えてみるとわずか2キロ先かそこらだ。いつだったか遠くの友達のところへ遊びに行ったときのこと,夢中になってカン蹴りをしているうちに,辺りが暗くなってきた。遊び仲間は「かえるが鳴くからかーえろ」とクモの子を散らすように帰っていった。ひとり残されたぼくは,誰もいなくなったことに気付き,「あの街この街日が暮れた 今来たこの道帰りゃんせ」と,とぼとぼ家路についた。行くときは意気揚々と出掛けたのに,帰り道はこんな遠くまで来なければよかったと後悔した。そんなときだ、風がすうすう通り過ぎるのを感じるのは。