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2011年12月19日 (月)

裏木曽の人々が守る農村舞台「明治座」

11月初めだったから、もう少しで2ケ月が経ってしまうというのに、岐阜の裏木曽「加子母」でで観た風景を未だに忘れることができない。(11/5-6の研修旅行の様子はこちら

加子母(かしも)は、木曽ヒノキを有する豊富な森林資源を長年守り育てているところ
かつては徳川幕府の御用林として江戸城の修復などに使用され、今は国の御料林(天皇家の森林資源)として伊勢神宮の遷宮時の供給林として重要な役目を果たしている…そんな森林の山守の里

加子母は、林業が元気がない昨今、厳しい状況の中で昔ながらの山と共生のスタイルを守っており、日本の原風景として注目の場所だ。
あれほど魅力的な里があっただろうか?山の活動に関わる我々にとっては理想郷のようなところだと思う。山を愛し、山と人が一体となり、その関係を保ちつつ、常に新しいことを求め続けていくパワーに圧倒される。

加子母は山だけでなく、そこに住む人に愛されてきた伝統を長く守っている。その伝統を披露する場所はもちろん山の恵みの木で作られ、その工法も考え尽くされたものだ。

住民が望み、住民の手で作られ、そして守られている伝統は地歌舞伎。そしてその地歌舞伎が演じられるのが農村舞台「明治座」

この明治座は、ヒノキを有する場所にも関わらず、ヒノキを一本も使わず、村人によって建てられた本格的な芝居小屋。「ヒノキ一本首ひとつ…」と、伐ることも山に入ることも厳しく罰せられた時代もあったからだろう。
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今でも年2回の地歌舞伎が演じられ、クラシックコンサートや果ては結婚披露宴にも利用されるとか…また、中村勘三郎さんの襲名披露公演も行われたそうだ。

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これは、当時の女衆が寄付したという「娘引き幕」。幕にはそれぞれの屋号と娘さんの名前がデザインされ、当時の方の心意気を感じさせる。

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次は舞台下にある「奈落」と呼ばれる場所。今でも人力で動かすというから驚きだ。

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この「奈落」から「スッポン」という切り穴を抜けると舞台左の通路に出られる。ここは亡霊や妖怪など非現実的なものの登場場所になっているそうだ。

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次は、楽屋の壁一面の落書きびっくりこれまで演じた演者たちの足跡だ。当時のまま残されていて、その楽屋が今も活躍しているとはなんと素晴らしいのだろう。
ここに居ると昔に戻ったような…そんな錯覚に陥ってしまう不思議な空間だった。
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明治座は、明治27年に村の有志によって建てられたもの。樹齢400年、長さ8間(4.4m)以上もある梁でしっかり支えられており、岐阜県の重要有形民俗文化財に指定されている。

このあたりは、地芝居が盛んな地域で、今でも27の歌舞伎保存会があるほどだ。100年以上経った今でも現役で稼働している明治座は、全国的にも貴重な芝居小屋という。

毎年9月始めには、地元保存会による地歌舞伎公演が行われるそうなので、加子母の里を巡りながら一度行かれてはいかがだろう。

 

2011年11月 9日 (水)

木曽の御料林…加子母(かしも)の森を歩く

裏木曽に長い間御料林を守り育てている村(現在は市に併合)があるのをご存じだろうか?

日本の原風景として注目されているその場所は木曽の中津川市加子母(かしも)だ。

加子母は、その90%以上が山だという。

その山で長い時間をかけて大切に育てた木を、一定のルールを決めて伐りだし、美しい材木にひき、大工が心をこめて家を建てる…そんな当たり前のことを、地域一丸となって進めているところだ。

常に一定の大きさの木が山に残り、その山全体の状況を変えないことを大事にしている。これは、一定のルールで「木を伐り」その「木を使う」、木を伐った後には「木を植えて育てる」。この繰り返しが「山を守る」ことに通じるとの考えだ。

ここ加子母(かしも)は、昔より美しい木曽ヒノキを多数産する場所で、江戸時代には徳川幕府の御用林として、現在では皇族の御料林として、その材を供給し続けている伝統ある「山守の里」。近年では、伊勢神宮の「式年遷宮」の供給林となり、また皇居、姫路城などの伝統建築にも提供されている。

昔の年貢と言えば先ずお米を思い浮かべるが、ここ加子母(かしも)ではその年貢が平木の木材だったというのは驚きだ。今でも、町のあちこちに製材所が立ち並び、木の香が町中に漂っている様子は、まさに山と共生している町だと感じさせる。

長年守り育ててきた「御料林」は、代々「山守」というお役目の家があり、今でもその役目をしっかりと引き継いでいる。今回の旅では、そのお役目を担う名家「内木(ないき)家」の現当主の方の案内で、滅多なことでは足を踏み入れられない「御料林」の中を歩くことができた。

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鍵の掛かったゲートをいくつか通り抜けると、そこが「御料林」。あいにくの小雨模様の中に紅葉の木々が美しい姿で迎えてくれた。

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先ずは、サワラとヒノキが密着成長して年輪が共通になった合体木の見学。樹齢は560年とのこと…気が遠くなるような歴史だ。

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「御料林」に入る前に、この山の歴史や、木の切り出しのルールやシステムの説明が行われた。この方が、山守「内木家」の現当主で、一日親身に案内頂き、今でもその温かい面差しが忘れられない。

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私たちの住む天竜の山は大半が人工林なのに対し、ここは自然林。自然の生態系を崩さぬよう 、伐るべき木を厳密に選定し、変わらぬ森林の姿を保っている。伐った切り株には時に他に木の種が芽を出し、そこから成長していく。その生命力の強さに奇跡すら感じる。

種が飛び、地面に新しい命が生まれる。そんな実生(みしょう)の杉やヒノキの小さな姿があちこちに見られた。これが自然林なのだと改めて実感できた。

(実生(みしょう)とは、種子から発芽したばかりの植物のこと。子葉や第一葉のある時期を指し、一般にいう芽生えのこと。転じて種子から発芽させて新しい植物体(苗)を得ることをいい、また広義にはそうして得られる成長した植物体をも指す。…Wikipediaより)

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歩いている内に雨が激しくなってきたが、自然の森の中にいると心が静かに流れていくのを感じる。降る雨も自然の恵みなのだから…。「屋久島に似てますね。」と内木さんに話すと「そうなんですよ。里で晴れていても、山では雨が急に降ってくることが多いし、この環境がいい木を育てているのですね。」との答えが返ってきた。

かつては木材を運び出したというトロッコ道を歩いて帰りながら、今回の体験がいかに貴重であったかを噛みしめる私たちであった。

                 (11/5ー6 研修旅行にて mamesan 記)

2011年10月21日 (金)

木洩れ日の家で

 Bigポーランド映画。木洩れ日が射し込んでくる一軒の古びた家に90歳を超えたアニェラは、ひとりで住んでいる。

 部屋や家具に思い出がしみついている。それらの品物を失うことは、彼女にとって過去を否定されること。若い者にはガラクタでも本人には大切な宝物なのだ。

 家も最近がたが来て、停電もしばしば起こる。それでも助けを求めようとしない。電話も訪問する人も、みな財産目当てで、無礼きわまりない。愛犬のフィラに話しかけることしか楽しみがない。

 古いガラス窓が外光に歪んで、思い出の一コマを映し出す。はつらつとバレエを踊る少女時代、ワルツに胸をときめかせた夜、美しい記憶だけが慰めてくれる。だが、愛した人たちも時間とともに去り、マニュエラを置き去りにしていく。

近所に住む若いカップルは子供たちに音楽を教えているらしい。時々子供たちがフェンスの破れ目から庭に勝手に入ってくる。3階の部屋へ外からよじ登ってくる悪ガキもいる。くったくなく話しかけて、じゃあねと下りていく。いきなり訪ねてきた少年は、自分の現在にも未来にも一切の不安を抱いていないようだ。目が澄んでいる。

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 欲に目のくらんだ息子や隣人をさしおいて、この家を子供たちの音楽の練習場にすると公証人に言い置く。

歓声を上げながらひとりひとり楽器を手にして、子供たちが木洩れ日の家にやってくる。音楽を教える若い夫婦は貧しそうだけど、どこかあたたかい。こぼれる笑みが小さな幸せを運んでくるようだ。

 フェンスを乗り越えて入り込んできた悪ガキが、熱い紅茶を手にマニュエラの部屋にやってくる。声をかけても返事がない。午後の日差しの中で、木洩れ日を浴びながらマニュエラは眠っている。

 森に囲まれた家の周りで、小鳥のさえずりが聞こえてくる。がらんとした部屋に、瑞々しい命の息吹が吹き込まれる。子供たちの笑顔が木洩れ日に揺れている。音楽が古びた窓から流れだす。

愛犬フィラの瞳は、天に召されたマニュエラに注がれていた。これ以上ない悲しみのなかで、途方に暮れているようだった。

2011年6月16日 (木)

までいの力

福島県相馬郡飯舘村は、阿武隈山系北部に開けた豊かな自然に恵まれた美しい村です。福島駅から車で1時間。ひと山、ふた山・・・いくつか越えて、高原にたどりつく。75%が山林を占めています。

ところが今回の震災、福島原発から40キロしか離れていません。こんなに美しい村をなくしていいのか!避難でばらばらになってしまう。故郷を離れたくないと、途方に暮れています。

Madeinochikara_2  この村が『までいの力』を発刊されました。までいとは、真手(まて)という古語が語源で、左右揃った手、両手の意味。それが転じて、手間ひま惜しまず丁寧に心をこめて つつましく という意味で、現在では東北地方で使われている方言です。

飯舘村の「までい・らいふ」というのは、心のゆとりのある暮らしを目指す、村のライフスタイルです。おいしい旬は農家が一番知っている。孫にも、この味伝えたいと、までい料理のレシピ。体に良さそうです。間伐材のチップボイラー。「ほんの森いいたて」という村営の本屋さん。

ふれあい、思いやりといった言葉だけが、軽やかに飛び回るなか、じっくりと腰を落ち着けて、実践している姿は、地方を元気にする鑑でした。

今回の震災、原発被害と、村人は打ちひしがれています。なんとかならないでしょうか。

2011年4月18日 (月)

奈良の大宇陀

4月5日、いーら旅行舎の人気シリーズ「大人の修学旅行」で大宇陀を訪ねた。大宇陀の古い街並みは、ひっそりしていて、時代を感じさせる。

奈良県の大宇陀は、明日香村の東に位置する。吉野の山に続く安騎野は、柿本人麻呂の名歌でも知られている。 

  東の野に炎の立つ見えて かへり見すれば月傾きぬ   
 (ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ) 

Photo  安騎野へ軽皇子一行と猟に出かけたとき詠んだ歌。 冬の厳しい旅宿りしたのも、若くしてこの世を去った草壁皇子を偲んでのことであった

一年のうち、最も夜の長い日の夜明け、東の空を朱に染めて日が昇る。その神秘的な現象をかぎろいという。振り返ると十六夜の月が傾いている。東をひむがしと力強く読んだのは、浜松の生んだ国学者、賀茂真淵である。なんと雄大な響きだろう。炎をかぎろひと読んだのも、絶妙である。                                                                  

写真  年の暮のころ、大宇陀(安騎野)の日の出に見られた紅の空

大宇陀の春、又兵衛桜の枝垂れが、爛漫と咲く。その見事さは関西随一と言われています。

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写真 4月14日、満開の枝垂れ桜 撮影 桜井多喜三さん

2011年2月17日 (木)

人生は森のなかの一日

長田弘は現代の最高の詩人だと思う。『深呼吸の必要』『世界は一冊の本』『人はかつて樹だった』などの詩集がある。やさしい言葉で深い想いを語る。

「人生は森のなかの一日」は『詩ふたつ』に収録されている。そのなかの最初のフレーズ。

何もないところに

木を一本、わたしは植えた。

それが世界の始まりだった。

次の日、きみがやってきて、

そばに、もう一本の木を植えた。

三日目、わたしたちは、

さらに、もう一本の木を植えた。

木が三本。林は森になった。

森の木が大きくなると、

おおきくなったのは、

沈黙だった。

沈黙は、

森を充たす

空気の言葉だ。

2011年1月24日 (月)

大きな木のような人

いせひでこは『ルリユールおじさん』の絵本で知られている。

『大きな木のような人』(講談社)はパリの植物園が舞台だ。

Img278 その木はなにも語らない。でもたくさんの物語を知っている。人はみな心の中に、一本の木をもっている。

植物の研究者とサエラとの交流を瑞々しいタッチで描いている。

木は人生に深くかかわっていく。

250年のプラタナスの樹に光が降りそそぐ。ああ、この樹は春埜山の神代杉を仰ぎ見た立ち姿に似ている。

2011年1月 8日 (土)

天声人語 1.6

2011年1月6日の朝日新聞 天声人語にこんなことが書かれていました。

Img270_4 数字を聞くだけで畏敬(いけい)をおぼえる木々がある。たとえば米国カリフォルニア州の森にある杉の一種ギガント・セコイアは高さが84メートルある。推定重量は実に1358トン。推定樹齢が2千年を超える立ち姿は、神々しいばかりだという▼名古屋大名誉教授の只木良也さんが森林文化協会の月刊誌「グリーン・パワー」で紹介していた。仲間には樹高111メートルの木もあるそうだ。長寿を全うすると、根が自重を支えきれなくなり、大地に倒れ伏して生涯を終える。太古から連綿と続いてきた、悠然たる森林の営みである▼地球を覆う森林に包まれて、人類はじめ多くの生物は育まれてきた。あまり知られていないようだが、今年は国連の定めた「国際森林年」である。世界各地で追いつめられる「緑」の実情を知り、守り育てる意思を確かめ合う1年にしたいものだ▼毎年、日本の国土の2割にあたる森林が地上から消えているというから驚く。生態系は失われ、温暖化を加速させる。遠目には美しく豊かな日本の森林も、放置されるなどして荒れた所が少なくない▼このあいだ近郊の山を歩いたら、間伐されない人工林は昼も暗く寒々としていた。だが農家の耕作放棄地に比べ、話題になることは少ない。

新緑や紅葉は愛(め)でるが林業には縁遠い。それが平均的な関心度なのだろう▼日本の国土の約7割は森林が占める。屈指の森林国だが、国民1人あたりで割ると、とたんに「貧林国」になると、かつて只木さんが書いていた。貧なればこそ、共有財産としてのありがたみは計り知れない。

写真 NATIONAL GEOGRAPHIC 09年10月号より

2010年10月16日 (土)

熊野古道を歩く旅 -大雲取・小雲取越え-(下)

Dscf0503_3  2日目早朝、宿を出て小雲取越えに出発しました。
 小雲取越えは道標29番から54番までの13.0キロです。
 

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 しばらく石畳道を登ると、いくつか茶屋跡がありました。その中でも桜茶屋は茶屋の庭先に桜の大木があったので桜茶屋と呼ばれたとのことで、明治の末ごろまで茶屋が営まれていたそうです。また、石堂茶屋跡の敷地の北側には水場、西方には茶店の人々の墓石も残っていて、往時の生活を偲ぶことができます。

 
↓イノシシの足跡?

Dscf0491_2  大雲取に比べ比較的アップダウンも少なく、木立の中の快適なハイキングを楽しんでいると、突然進行方向左手の斜面に何か動くものが見えました
 
何とイノシシ発見!大きい!すぐに姿は見えなくなりましたが、どうしましょう。どうかこっちへ来ませんように。そうだ、こちらの存在を知らせれば逃げていくかもしれないと、歌を唄うことにしました。でもこんな時、どんな歌を唄えばいいのでしょうか。とっさに口に出たのが「ちーちーぱっぱ、ちーぱっぱ、スズメの学校の先生はー」何でスズメの学校?その時はとにかく元気で軽快な歌がいいと思ったのです。

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幸いイノシシと出くわすこともなく、小雲取の中ほどまで行くと小石がうず高く積まれた賽の河原地蔵尊がありました。行き倒れの人を供養したものと言われています。

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 小雲取も道の両側の杉・ヒノキの森はよく手入れが行き届き、山と共に生きている熊野を感じました。

                                                                    

 
ついにスタートから4時間で、54番ゴールの請川に着き、無事大雲取・小雲取越えを終えることができました。
 請川からは一般道を約3キロ歩き、熊野本宮大社へ。
 古くから、多くの人々が通った聖なる道・熊野古道、パワースポットと言われる熊野の森の中を歩き、森から精気をたっぷりいただいて、人も森の一部だとしみじみ感じた2日間でした。

2010年10月13日 (水)

熊野古道を歩く旅 -大雲取・小雲取越え-(上)

 10月の初旬、3回目となる熊野古道の旅に出かけました。
昨年の2回の伊勢路に続き、今回は中辺路(なかへち)の大雲取・小雲取(おおぐもとり・こぐもとり)越えに挑戦しました。
 大雲取・小雲取は「流れる雲に手が届くほど高い山」が語源とされ、熊野三山の那智大社と熊野本宮大社を結ぶ山越えの道で熊野古道最大の難所といわれています。(熊野三山とは本宮大社、那智大社、速玉大社に那智山青岸渡寺を加えた三社一寺の総称)
 朝、宿を出てバスで那智の滝まで行き、滝を見てから那智大社にお参りして、いよいよ大雲取越えです。
 
 Dscf0453_2 森に入り歩き始めるとすぐ、イノシシが地面を掘り返した跡があちらこちらに。こんな近くまでやってくるのかと驚きましたが、どうかイノシシに出会いませんようにと祈りながら歩きました。
 熊野古道は世界遺産に登録されたこともあってきれいに整備され、大抵のコースには番号のついた道標が立ててあり、歩く励みになります。大雲取越えは500メートルごとに28番までの14.5キロです。

Dscf0475_6  この周辺の森は、ほとんどが杉とヒノキで広葉樹はほとんどみあたりません。よく間伐が行われていて、高く伸びた杉やヒノキの根元に切り倒され た丸太や枝打ちされた枝がゴロゴロと転がっていました。あるところはすでに朽ち果て、あるところは新しく、長い時間をかけて手入れされているようです。
 それにしても伐られた木は何かに使えないものかと、せっかくの資源が無駄になっているようで残念に思いました。  

 Dscf0478_5 途中には、時々苔むしたお地蔵様がひっそりと立っています。
 「蟻の熊野詣」という言葉があるように、平安時代以降、信心深い多くの人が、蟻のようにぞろぞろと熊野を目指しました。旅の途中で行き倒れになったり、海岸沿いでは波にさらわれたりする人もいたそうですから、命がけの旅でした。今、私たちが歩いている同じ道を、古代の人も歩いたのかと思うと感慨深いものがあります。


Dscf0474  杉・ヒノキの間に何か他の種類の木の苗を植えてある光景が目に入りました。広葉樹でしょうか?確かに、杉・ヒノキだけではドングリや木の実もなく、動物も住みにくいのかも知れません。


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大雲取越えも3分の2ほど進むと、中辺路最高所(標高860m)の越前峠を越えます。ここからゴールの小口までは一気に800mを下る最大の難所となります。明治の頃に国道42号線が開通するまでは、この道が熊野と西国を結ぶ唯一の街道だったそうで、こんな険しい道をわらじ履きで、重い荷物を背負って歩いたのだと思うと、昔の人の苦労が偲ばれます。

Dscf0481_2 大雲取越え終盤の辺りには、旅籠が軒を並べたという集落の跡が続いていました。
 ここには大正年代まで旅籠が営まれていて「豆腐あります、風呂わいてます」が宿の宣伝文句であったそうです。当時はずいぶんとにぎわったのでしょう。
 苔むした石積みがわずかにその名残を残していました。


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 さらに進むと、熊野の神々が腰を掛けて談笑したという大岩の「円座石(わろうだいし)」があります。
 円座石には阿弥陀仏・薬師仏・観音仏を表す梵字が刻まれています。                       

                      

Dscf0500_4  歩き始めて6時間半、やっと28番の道標を見つけて、大雲取越えを終え、今日の宿・小口自然の家へ向かいました。
 小口自然の家は、20数年前に廃校になった中学校を改築したもので、かつての教室が今はきれいな客室となっています。

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