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2008年6月

2008年6月30日 (月)

木・旅人の憧れの存在

木に憧れるひと、木に癒しを求めるひと、木に惹かれるひと…いろいろな想いを木に抱くひとがいます。

なかでも木のファンには、何故か旅人が多いようです。旅人というのは、現実に旅している人ばかりではなく、精神的に旅人である人も含まれるのかも知れません。

私自身もここ何年か…木に対する想いが、どんどん強くなってきて、それは何故だろう?と思っていたところでした。そんなところに、こんな文章を見つけました。

 それは、木の写真を撮り続けているある写真家に対する言葉…

 「木に対する深い想いが、恥じらいが、その写真に特別の思いを与えている。それは、彼が旅人であることと、その根元で深く関わり合っている。旅人には根が無い。根無し草である。だからこそ、大地にどっしりと根を下ろした木に、旅人は無限の恥じらいを持つ。憧れを持つ。」

 「木と向かい合い、木とひとつの空間を共有しあい、木によって控えめに生きようとする必死の思いが、その写真を成り立たせている。」

この文章は、「写真集 50本の木」に寄せられた、この写真集の編者天野氏による作者丹地安堯氏へ向けた言葉です。

根無し草だから、大地にしっかりと立つ木に惹かれるという言葉は、自分自身に置き換えても納得できる気がしました。

Link 旅人と言えば、すぐ思い浮かぶのが、ムーミン谷の登場人物…スナフキン。彼は孤独と自由を愛するさすらい人、そして吟遊詩人です。彼も、もしかしたら「木」への特別な思いを抱いていたのでしょうか?

ムーミンたちが住んでいるムーミン谷は、東におさびし山がそびえたち、そのふもとにそって川が流れています。川にはパパのつくった橋がかかり、橋をわたるとムーミン屋敷へとつづく道があります。屋敷の北がわにはライラックのしげみがあり、さらにその北には大きな森があります。西にはおさびし山とむかいあって高い峰があり、その西は海となっています。

ムーミンの親友のスナフキンも、おさびし山の中や大きな森を彷徨うことがあったかも知れません。そんな時彼の話し相手は、「木」だったのかも知れませんね。

2008年6月18日 (水)

耳をすませて…

小さな頃から憧れている一本の木があります。

それは、あの「この木何の木、気になる、気になる…」というコマーシャルソングで有名な木。

実際の木は日本にはなくて、海外の南の島にあるそうですが、何年経っても、あの木の下に行ってみたい気持ちは消えることがありません。

昔、まだ冷房などなかった時代、人は大きな木の木陰で暑さをしのいだことでしょう。仕事の合間や学校の帰り、立ち寄っては一息ついて、たまたま一緒になった人と、たわいもない会話も交わしたことでしょう。木は人々の癒しの場所であり、コミュニケーションの場所でもあったのだと思います。

いまや、そんな憩いの場所を提供してくれる木は、私たちの近くにはありません。遠い山に向かってはみても、たやすく側にはいけず、その姿を遠くから仰ぎ見ることしかできないのです。

木は、いつのまにか私たちから遠い存在になってしまいました。叶わぬ夢ですが、木と触れて、物言わぬ木の声に耳をすませ、その声を聴いてみたいものです。

そんなことを歌った詩がありました。

感じる心を磨いていけば、もしかしたら、そよぐ風に混じって木の声が聴ける日が来るのかも知れませんね。

        Fs_pl1051m_3 「木」    谷川俊太郎

   木がそこに立っていることができるのは
   木が木であってしかも
   何であるかよく分からないためだ

   木を木と呼ばないと
   私は木すら書けない
   木を木と呼んでしまうと
   私は木しか書けない

   でも木は
   いつも木という言葉以上のものだ
   或る朝私がほんとうの木に触れたことは
   永遠の謎なのだ

   木を見ると
   木はその梢で私に空をさし示す
   木を見ると

   木はその落葉で私に大地を教える
   木を見ると
   木から世界がほぐれてくる

   木は伐られる
   木は削られる
   木は刻まれる
   木は塗られる
   人間の手が触れれば触れるほど

   木はかたくなに木になってゆく

   人々はいくつものちがった名を木に与え
   それなのに

   木はひとつも言葉をもっていない
   けれど木が微風にさやぐ時
   隅々で
   人々はただひとつの音に耳をすます
   ただひとつの世界に音をすます

2008年6月 9日 (月)

森の動物たちの嘆き

本来森の中で生きているはずの動物たちが、その森の生態系の崩れから、餌を求め、人里まで降りてくるという話を最近よく聞きます。

人に危害を与えるということで、殺される動物たちも多いのです。

人と動物はそれぞれの生活圏を守って、その豊かな自然の中で長い間共存してきました。何故こんなことになったのでしょう?それは人間の傲慢からなるものです。気づかない内に、人間はその自然を壊してきました。そして気づいた時には、元の自然に復元するのに膨大な時間を要する事態に至ってしまったのです。

 自然界では、その生態系のなかで、様々な植物が、見事にバランスを保ちながら共存しています。その中の1種類でも生物がかけると生態系のバランスはたちまち崩れ、森は崩壊に向かっていくのです。 

 森が昔のような強い自然を取り戻せば、動物たちの餌も増え、植物たちも生命力溢れて生きていけるでしょう。本来の生態系を取り戻した森と、そんな森の隣にもうひとつ、人間が足を踏み入れることができる、光溢れる森を形成できたらどんなにいいでしょう。その森の活用で持続可能な林業が復活し、人間社会も生き生きと輝きを取り戻すことでしょう。

Dsc05435 6/7(土)愛知県四谷の千枚田で「みんなで灯そう千枚田」というイベントがありました。山深い棚田…田植えの終わった沢山の田ひとつひとつに竹筒が置かれ、その中にロウソクの明かりが灯され、それは幻想的なイベントだったそうです。この棚田も沢山の人によって支えられ、大切に残されています。ひとつひとつの灯りにこめられた想いが伝わってくるようです。

森の中に棲む動物や植物、森の周りに住む私たち人間…それぞれが共存していけるような生態系に戻すために、私たちもひとつずつでも灯りを灯していきたいものです。

2008年6月 2日 (月)

木と人の縁

Fs_pl1022m 日曜の朝に目に飛び込んできた一枚の写真…それは、あの「春埜杉」の勇姿でした。

しずおか県民だより6月号の表紙は、「千年の感動」というタイトルをつけられた春埜杉が飾られています。なんだか誇らしい気分です。

年を経るに従って、心が自然を求めるようになっている気がします。それは意識することなく自然と一体になっていた幼い頃に戻っていくからかも知れません。

私も屋久杉に出会ったことで自然に目覚め、この春埜杉ってから、その想いがますます強くなってきました。木を愛しく想い、森の中にいると癒されていく自分を感じます。

そんな心象を描いた詩を見つけました。それは、谷川俊太郎さんの「木と人」という詩です。

  「木と人」  谷川俊太郎

 木に隠れてのぞき見してるやつ
 木に立ち小便してる犬みたいなやつ
 ごく単純に木登りしてるやつ

 詩人だろうか木に接吻してるやつ
 定点で同じ木を毎日写真に撮ってるやつ
 そしてもちろん木を伐り倒すやつ
 そうかと思えば木を植えるやつ
 木への態度も人さまざまだ

 木の人への態度はどうかと言うと
 落ち葉で樋を詰まらせるやつ

 涼しいのどかな木陰を作るやつ
 倒れた後も花を咲かせるしぶといやつ
 仏に彫られて人に拝まれるやつ
 積み木になって子供らに遊ばれるやつ
 割り箸となってすぐ捨てられるやつ
 化石と化してたいした態度で売られるやつ

 木と人は木っても木れない縁でむすばれ
 木の気はきづかぬうちに人を癒す
 木の家 木の椅子 木の机
 の上のこの詩も木から作られた髪に刷られた

「木と人は木っても木れない縁でむすばれ」…いのちの木を愛おしみ、癒されたいという想いは自然の流れなのですね。