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2011年10月22日 (土)

バルカンの旅 ギリシア

ギリシァはバルカン半島の南端、北へ向かうにつれ、金平糖の様々な色をぶちまけたように多民族が入り混じる。人種の坩堝(るつぼ)と化し、金平糖の角突き合わせて、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫となる。
Bal_8
風景はどこまでものどかだ。緑の谷に花が咲き、丘の頂に教会の塔が見える。プリマベーラの春の女神がほほ笑む。
森が深くなる。新緑の傘の下、緑のシャワーを浴びたよう。途中、『成人の骨』というお菓子を由紀さんからもらった。ふわふわと粉が空高く舞い上がり、食べるときは息をしてはいけない。ちょっと苦しい思いをするがとても美味しい。
森を抜けると、平地の真ん中にピニネス川がゆったりと流れていた。オリーブ、小麦、ひまわり、トウモロコシ、ギリシァ最大の穀倉地帯だ。西の方に雪をいただくピンドス山脈が連なる。2500メートル級の急峻な山を越えて、遊牧民はバルカン半島を移動する。

2011年5月10日 (火)

フンザのハセガワ学校

Paki_46 今朝のフンザは気の遠くなるほどよく晴れわたっていた。杏の花が百花繚乱、段々畑のあぜ道に沿って清水が流れ下る。桃やリンゴ、杏の木は、自らの美しさを隠すように畑の端にひっそりと咲く。花の枝はラカボシの峰を小脇に抱え、女たちが笑いながら野良への道を急ぐ。土の道を歩く感触が春うららである。カケスが枝から枝へ飛び移る。
清水で顔を洗う老人にあいさつをして、さらに道を下る。小麦の芽が出揃い始めた浅緑の畑のかたわらで、羊が草を食む。桃源郷で暮らせば長生きするわけだ。
雪の峰々が紺碧の空に鋭く突きささるよう。その背後にウルタルⅡがそそりたつ。長谷川恒夫が命を落とした山だ。1991年10月10日、当時まだ未踏峰であったウルタルⅡに登攀中、雪崩に呑み込まれたのである。エベレスト、世界三大北壁を登頂したトップクライマーにしてかなわぬ山であった。死を悼むなかで、彼の妻は、山のふもとに学校を建てた。ハセガワ・スクールであるPaki_24
花の道を子供たちがやってくる。赤いカーデガンをお洒落に着こんで、とても奥地の子供たちとは見えない。学校の背後にそびえるウルタルの山高く長谷川恒夫は子供たちを見守るように今も眠る。花と雪山に包まれて、あっちからもこっちからも子供たちが行進してくる。どの子の頬も赤い。先生の号令で朝礼が始まった。低学年の子供たちは愛くるしく、高学年はきりりとひきしまって、顔立ちがみないい。
子供たちは、全員で暗唱したアラーへの祈りをささげる。体操をし、歌をうたい、訓話に耳を傾ける。ああ学校はいいなあ。号令がかかって、子供たちは行進しながら退場する。教室は広くはないけど、なかなかしっかりとした造りだ。廊下を飛ぶようにして、教室をのぞいた。今勉強しなくて、いつ勉強するのだという熱気に包まれていた。長谷川さんの見ている前で、なまけてなんかいられない。

2011年4月16日 (土)

世界1の長寿村 フンザ

Paki_22_2 カリマバードはフンザの中心、バザールもあるし、お城もある。バルティット城が、フンザの谷を見下ろす崖の上に建っている。まるで天空の城のようだ。望楼がすっくと立ち上がって、対岸のナガール王国の進攻に備えていた。バルティスターンから嫁いできた王女の結婚記念品だそうだ。日干し煉瓦に白い漆喰が塗りこまれた木造四階建て、屋根に採光と風を入れるため大きな穴が開けられている。雨が降ったら蓋をするのだろうか。この天窓様式は村の家でも同じだった。
お城のすぐ下は学校のグランドで、子供たちがクリケットに夢中になっていた。パキスタンはどこへ行っても、クリケットがさかんだ。昔、空き地があれば野球に興じていた戦後の日本みたいだ。段々畑がていねいに耕され、杏がどこもかしこも満開で、霞か雲か匂いぞいずる。フンザ川が光り、ディラン、ラカボシの高峰が連なる。ルードリッヒ王がこの城に立てば、泣いて喜んだだろう。
Paki_23 バザールでは干し杏と胡桃が目に付く。屋根の上で干した杏は砂混じりだが、天然ものだからこっちのほうがいい。高地の杏は、長寿に効くという。カスピ海のコーカサス地方、エクアドルのビルカバンバ村とともにフンザは世界三大長寿地域なのだ。外界と隔絶されて先進国の食文化が入ってこなかったからだ。その証拠に、ビルカバンバはハイウェーが開通して肉やコーラが入るようになり、一気に寿命が落ちたという。
バザールの道端で、年寄りと子供たちが並んで座っていた。老人たちは、ただ道行く人を眺めているだけだったが、そのしわの深さに揺るぎない人生を感じた。おじいちゃんの隣でうれしそうな子供たち。
狭い抜け道を羊たちがメーメーと降りてくる。ひときわ大きな声で鳴いているのは赤ちゃん羊だ。ちょっと足元がおぼつかなくなると、羊飼いが抱きかかえてやる。

2011年2月23日 (水)

パキスタン フンザ  3

対岸のナガール村へヒスパー川沿いに行く。雪の山々が日を受けてまぶしい。ぼうらを背負った女の子が草の土手を駆け下りてくる。今日もまた草刈をしていたのだろう。珍しいジープが見えたので、急いでやってきたのだ。立ち止まってじっと見つめる表情がかわいい。いまどきこんな純粋な子がいるなんて、風の谷のナウシカを思わせる。宮崎駿の「風の谷のナウシカ」はフンザがモデルだという。
Paki_29 ホーパル氷河に着いた。はるか彼方の峰から、氷河はガリガリと地表を削ずりながら下りてくるから、すっかり灰色に汚れている。フンザは氷河がいたるところにある。何千年のスケールで流れてくる氷河は、たっぷりミネラルを含んでいる。
けわしい道を引き返す。白い山々を背に、農夫は今日もまた鍬を振るう。青い空の下、麦の芽が出揃い、アンズの花が咲きほころぶ。春の絨毯に乗っていれば、桃源郷の境地になる。こんな美しい村で、ずっと暮らしたていたい。これは内緒だが、女性はみな彫が深く、澄んだ黒目をしている。7色の谷を越えて流れていく風のリボン。

2011年2月13日 (日)

パキスタン フンザ  2

カラコルムのご来光を拝もうと4時に起きた。夜のうちにスズキ(小型ジープ)で出発する。登山道とほとんど変わらない悪路を這うようにして登っていく。ドスンドスンと揺れるたびに転がり落ちそうになる。何かにしがみついていないホントに落ちる。
Paki_31 集落を抜けて行く。こんな高いところにも人が住んでいたのだ。まだ深い眠りの中についているのか、シーンとして物音ひとつ聞こえてこない。1時間ほどして、ドゥイカルの丘に着いた。気温0℃、寒い。
空が白みかけてきた。雲ひとつない好天、ぐるりと名だたる高峰を見渡す。6時、ダイヤモンドリングのようにラカボシ(7788)の頂上が輝き出した。ついでディラン(7257)の尖ったピークに光が当たる。背後に向きを変えると、ウルタルⅠ(7329)、ウルタルⅡ(7388)の頂上が、ピンクに染まりだした。ご来光はこのように峰から峰へと光芒を放ち、ピークの軌跡を描いていく。フンザピーク(6600)が時を待って明るくなりだした。レディースフィンガー(6000)はその名の通り、貴婦人が小指を立てたような形をしている。どこか気品があって、寄り付きがたい。レディースフィンガーにからみつこうものなら、あの鋭い爪でひっかかれるだろう。あなたが噛んだ小指が痛いなんて、彼女は歌わない。冷たい笑みを浮かべて、奈落の底までついてくる。
ぞくりとする美々しくも壮麗な峰々、際限もない群峰の乱舞、荘厳な高山の陳列所。北杜夫はそう書いた。
彼は1965年、ディランの登頂隊に参加し、後に登頂記『白きたおやかな峰』を著した。登頂といっても医師として同行しただけで、大半はテントの中で酒を食らっていた。それでいて、「月光がすべてのものに神秘的な影を投げ与え、これほど渺茫たる天地の広がりを見たことがない」などと書くのである。
「厖大な岩と雪が何をか人を魅了し、圧倒し、厳粛にさせるものを形造っていた。この世ならぬ痛みにも似た何かを訴えていた。峰々もそれぞれの微光を放ち、ゆるぎなく調和していた。大自然の魔術に幻惑されて、寒気の中に立ちつくしていた」。
うーん、目の前の光景をかくも荘厳に表現するとは作家は違う。「美女の胸のようにまろやかで、しなだれかかる蠱惑的な腰つき」なんて思っても書いてはいけない。
日は昇る。カラコルムの山々を明るく照らし出して。日の当たる斜面と影の部分のコントラストが山容を際立たせていた。
寒さに凍りつきそうになって、近くのレストハウスでチャイを飲んだ。帰り道はすっかり朝になり、人々の営みが始まっていた。

2011年1月24日 (月)

パキスタン フンザ  1

ギルギット川と分かれて、さらに支流のフンザ川を遡る。カラコルムハイウェーはノーザンエリアに入っていく。対岸にジープ道が細々と続く。かつてのシルクロードは見る影もない。激流につり橋がかかっている。降りて行ってみると、渡し板が跳び跳びで、しかもユサユサ揺れているから渡ろうにも渡れない。さすが地元の人は慣れていて、ひょいひょいとこともなげに渡っていく。
Paki_30 フンザが見えてきた。橋を渡り、坂道を登る。浅緑の段々畑、アンズの白い花。谷深く、こんなにもひっそりとした村があったのだ。穏やかな風景のなかで、野良仕事に励むひとがいる。どこまでも高い段々畑は、耕して天に至る。

山々に囲まれたフンザはすり鉢の底にあるようなものだ。平らなところといえば川原か学校の運動場くらいだ。どこへ行くにも、うねうねと坂道を歩いていかなければならない。これじゃあ畦道を上り下りするだけで大変だ。だが足腰が鍛えられれば、それだけ丈夫になる。長寿の坂道、細い道、ソレヤットコホイッサッサ。
見晴らしのよいホテルに泊まった。窓いっぱいに村の風景が見え、夜には家々の明かりが点々とまたたいて幻想的だ。部屋の窓から8千メートル級の高峰、フンザピーク、レディースフィンガーが見える。

Paki_30_2 庭は杏の園で、居ながらにしてお花見気分だ。
晩御飯はシシカバブ、タンドリーキチンに加えて、ダウドというパスタ入りスープが出た。パスタと思ったらうどんの元祖だという。東洋のうどんがシルクロードを越えてフンザに伝わったらしい。西域の食文化はさらに西へ向かっう。イタリアのパスタ料理は、シルクロードがルーツなのかなあと、フンザのうどんを食べながら考える。
「長細くないねえ」と言ったら、元々うどんは団子みたく丸まっていたそうだ。くるくると端がないから混沌、それがなまって饂飩になったという。おつゆは醤油味でなくて、どこかカレーうどんに似ていた。
夜更けて、星がカラコルムの山頂にかかっていた。降るような星月夜、オリオン、カシオペア、スバルへと星めぐりをする。

2010年11月 5日 (金)

秘境 ブータン 3

38_2ブータンの国道1号線といっても、つい最近、西と東が結ばれたばかりで、ホントにこのまま道は続いているだろうかと不安になった。モンガルへの道、トゥムシン・ラ峠でダルシンが霧の中にぴたぴたとはためいているのを見て、地獄の使者がやってくるように思われた。霧にまかれたうえ、険阻な道はぬかるんでいて、ハンドルを取られて横滑りする。ガードレールがないから、下手をすると1000メートル下の谷底へ落っこちる。
そんな中、トンサ行きの定期バスが亡霊のごとく通り過ぎていく。思わず手を合わせてしまった。向こうもこっちを見て、手を合わせていたかもしれない。

もっともわがドライバーの腕は確かだ。なにしろ一緒に釜の飯を食った仲だから。「おれのワイフは美人でボインだ」といって写真を見せてくれた。「うまいことやりゃあがって、おまえはどのように壁をよじ登ったのだ」と訊いたら、「うっししっ」と笑って答えてくれなかった。それが安心とどう結びつくのかといわれても困るが、ワイフは美人のほうがいい。
タシガンに行く途中、石が転がっていて、みんなでどかさないと通れなかった。街への道は遠い。すでにとっぷりと暗くなっていた。はるか山の上に、ちらりと灯りが見えた。走れども走れども近づいてこない。等高線どおりに奥へ入っていく。30分もかかって灯りが再び見えてきた。高い山の家を尾根住まいという。あんなところで、今頃、家族そろって晩御飯を食べているのだろうか。あれでは暗くて料理が見えないではないか。
やっとたどり着いたタシガンのホテルはシャワーもなく、学校の保健室にあるようなベッドしか置いてなかった。しばらくすると停電となって真っ暗闇。仕方がない、寝袋にもぐって寝るとするか。ところが夜中じゅう、近所の犬たちがオールキャストで、キャンキャン吠えまくる。うるさい。だいたいブータンの犬は、昼間、ドタッと寝転んで怠惰に過ごしているのに、夜になって活躍するとはなにごとだ。しかし犬の遠吠えを聞いたのはいつの日かと、変に懐かしがったりして、秘境の夜は更けゆく。

2010年10月20日 (水)

秘境 ブータン 2

35 ブータンの谷では、1日のある時間、必ず山風と谷風が吹く。(山風、谷風については中学のとき、菅沼先生から教わった)。かなり強い風が森の木々をふるわせて、さわさわと葉擦れの音がする。ブータンにも冬青(そよご)の木があったのだ。
秘境は人の立ち入らないところだから、分け入っていくほうが邪魔者だ。「時間が止まったような」という言葉の裏に、都会人の傲慢さが覗く。時計などの産業革命の産物は、体内時計を拠りどころとしているものにとって必要ない。結果、「ちょっと待って、手帳を見てみるから」と、時計の僕(しもべ)となっていることも知らないで、ぺらぺらとページをめくったりする。ぼくなど手帳をつけたことがない。単なる閑人というかもしれないけど、時間に縛られないポリシーを生きているのだ。
森の中では、自分が限りなく小さな存在になるといい。出来れば消えてなくなるほうがいい。そのとき初めて秘境は素顔を現す。
最近、秘境を売り物にしたツアーがあるけれど、展望台、レストハウスを見に行くようなものだ。こんなところを秘境と呼ぶのは卑怯だ。
ブータンは観光化しようにも、道路事情が追いついていかない。標高差と忠実に付き合うブータニーズは、地理の教科書どおりに暮らしている。道路は等高線をなぞるようにくねくねと曲がり、橋を架けるとかトンネルを掘るという発想がない。これはインド工兵隊が開いた道だから仕方がない。まっ平らなところしか知らないインド人は、山岳地帯となると苦手だ。
ブータンの東西の直線距離は300キロしかないのに、国道1号線は600キロある。対岸のナムリンの滝を目の前にして、バスは九十九折の道をゆっくりと回って行く。いいから飛べといいたくなる。
数年前、タシガン近くに飛行場をつくって飛ぼうとしたことがあった。しかし滑走路は水平でなく途中で上り坂になっていて、飛び立とうとした飛行機は、坂であえなくクラッシュした。幻のまま人々の夢の中でしか飛行機は飛べなかった。

2010年9月28日 (火)

秘境 ブータン

 ブータンは秘境に彩られて、必ず秘境の文字が冠せられる。まるで秘境ブータンというのが正式な国名みたいだ。どこもかしこも秘境なのかというと、実はそうなのだ。

南極が縦断され、エベレストのルートがいくつも開かれても、ブータンの地図はなかなか完成されなかった。今でこそ人工衛星インテルサットでよほど知られるようになっているが、森の奥深くは謎のままである。山また山のさらなる谷に住むは、神か仏か魑魅魍魎か。

何しろ、7千メートル級のヒマラヤの斜面が国土だから、がけっぷちにしがみついて暮らしているようなものだ。わずか南北170キロの距離を7000メートルの落差で駆け下りる。北アルプスと浜松の距離だ。ブータンの川は、すべて氷河を源流として滝のようにプラマプドラ川に流れ落ちる。氷河が渓谷を切り刻んで厳しい山容をつくる。ブータンの景色は高いか深いかのどちらかである。

タシヤンツェのクロン・チュ(川)は、氷河の融水で茶色ににごっていた。それがタシガンあたりで銀ねずに変わる。川土が星砂のようにきらきら光っていた。氷河によって運ばれてきた土砂に雲母が含まれているからだ。

7000メートルの高度差ならば、雪豹から鰐まで、ブルーポピーからブーゲンビリアまで、多種多彩な動植物と出会うことができる。植生の垂直分布も、氷雪帯、栂、樅の針葉樹林帯、樫、椎の照葉樹林帯、亜熱帯林と模式図のように見られる。

 秘境ならば珍獣怪鳥がいてもおかしくない。4つ足のトドといわれているターキンは、高地の岩場をうろうろしているし、金色のマフラーをなびかせた猿、ゴールデンラングールは熱帯の森を渡り歩く。

2010年8月 8日 (日)

ブータンの森 3

33_2 ブータンの人たちは、森に対して世界で一番謙虚な国民だ。なにしろブータン国王ほど徹底した森の守護神はいない。照葉樹林の西の果てはネパールだが、乱開発でほとんど消滅してしまった。熱帯雨林の運命を見ても、ホモサピエンスは賢いとはいえない。森は人間だけのものではないという国王の卓見は、ブッシュより偉い。
ブータンでは森林伐採現場は一箇所しか見なかった。それも大変厳しい条件が付く。森が豊かだと、動物や昆虫、鳥が生息するし、林床に生える植物も多い。環境教育などと、ことさら言わなくても、ブータンの子供たちにとって当たり前すぎる。水や風の循環システムは輪廻転生そのものだ。
ブータンを旅してガードレールも交通標識も何も見かけない。未整備といえばそれまでだが、自然のままに余計なものが視界に入らない。そのほうがずっといい。揺れようと落っこちようと我慢する。
我慢するといっておきながら提案するのもなんだが、ブータンに山岳鉄道を走らせたい。ブータンは全土世界文化遺産のようなものだから、自然の一部をお借りして誰もがいけるようにしたい。自然破壊と国王は言うだろう。それより森の聖域を侵すことになると、パドマ・サンババは怒りまくるだろう。ぼくにも反論の用意がある。
 ブータンの子供たちの7割は学校へ行っていないし、まじめに学ぶ大学生に就職先がない。何か助けがいる。自然破壊せず、観光化せず、知恵を出してなんとかならないかなあ。
ぼくの愛する南アルプスの森林鉄道は、ノルウェーのフラム鉄道、イギリスのスノードン鉄道に負けていなかった。命が保障されていないのが欠点といえば欠点、もっとも今は廃線になっている。スイスの登山電車やペルーの鉄道は、景色と一体となって旅のロマンをかきたてた。
谷底数百メートルの鉄橋を渡ってヒマラヤを眺める。世界一の風景だ。